散文考

野村喜和夫

そのとき私は
すべてを記憶した
記憶しなければならぬと思った

なぜそう思ったのかはよくわからないけれど
冬の夜だった
都心から西へ伸びる街道を
車でひたすらすすみ
危篤の母のもとへと急いでいた
ところが途中で工事渋滞に巻き込まれて
思わぬ時間を食ってしまった
ようやく渋滞を脱して
電波塔
先端に紫の照明灯を戴いて
それが妖しく夜空を彩る電波塔の下まで来たとき
不意に携帯が鳴り
私は車を路肩に停めて
母の臨終を伝える親族の声を聴いた
そのとき
大型のタンクローリーが
私の車の脇を通り抜けていったこと
街道の右の
煌煌と明るいコンビニエンスストアには
雑誌類を読む人がまばらにいて
蠅の頭のようにみえたこと
街道の左の
ゴルフ練習場はすでに閉まり
芝生に散らばるゴルフボールが
闇に浮かぶ水銀の粒か何かのようにみえたこと
それらすべてを私は記憶した
記憶しなければならぬと思った
それはいわば
私が臍帯の残滓を失って
決定的にこの世へと
いや宇宙へと放り出された瞬間なのだ
いわば私の
二度目の生誕の瞬間
そんな私を置き去りにするように
追い越してゆく冷凍車
つぎにスポーツカー
つぎにまた冷凍車
私はふと自分の古い詩句を思い出していた
錆と苔が行く
霊のぬけがけが行く
またオルガスムス屋が行く
フロントグリルから見上げれば
わずかながら空にまたたく星
そして何よりも電波塔
電波塔だった
その先端の
なぜかいちだんと明るさを増しながら
かっと私を見下ろしているような紫の照明灯
明日の安寧を不吉に
あるいは優しく明日の不穏を
告げているような照明灯
紫の異様に紫の
それを私は記憶した
記憶しなければならぬと思った

──詩集『plan14』(本阿弥書店、2007)より