から 62 のソネット

Shuntaro Tanikawa

1  木 蔭
 
とまれ喜びが今日に住む
若い陽の心のままに
食卓や銃や
神さえも知らぬ間に
 
木蔭が人の心を帰らせる
今日を抱くつつましさで
ただここへ
人の佇むところへと
 
空を読み
雲を歌い
祈るばかりに喜びを呟く時
 
私が忘れ
私が限りなく憶えているものを
陽もみつめ 樹もみつめる
 


2  憧 れ
 
初夏の陽の幸福な宿命の蔭で
私の希みはうとんぜられ
私の憧れだけが駈け廻った
はかなしとふり返る暇もなく
 
信ずることなく愛してしまった
すべてのゆかしいたたずまいを
それを誰の媚態と云えるだろう
野も雲も愚かなものと知りながら
 
やがて私の小さな墓のまわりに
人と岩と空とが残る しかし
いつまでも誰が明日を憶えていよう
 
私は神をも忘れてしまった
生きないで一体何が始まるのだ
初夏の陽の不思議に若い宿命の蔭で
 


3  帰 郷

ここが異郷だったのだ
わびしい地球の内玄関で
私は奥の暗さにひきこまれた
いろいろな室の深く隠微なたたずまいに

私が誰か?
帰るすべを知るよしもなく
私は便りを書き続ける
私の限りの滞在について

もはや他の星に憧れず
この星に永遠よりもおもしろく住むことについて
しかしなおいつか帰るとの二伸と共に 

おそらく私の予期せぬ帰郷がある
親しい私の異郷からの
私のいない 私の知らない帰郷がある



10  知られぬ者

自動車が云った
鉛筆が云った
化学が云った
お前さんが私をつくったのだ人間よと
 
狸はそれをどう思ったろう
星はそれをどう思ったろう
神はそれをどう思ったろう
みちあふれた情熱のしかし愚かな傲慢を
 
さびしいことを忘れた人から
順々に死んでゆけ
知られぬ者ここに消ゆと
 
風は夕暮の地球に吹き又見知らぬ星に吹いた
神は夕暮の地球を歩き
又見知らぬ星の上を歩いた