The Unexpected Scent of Salad

Yasujiro Ozu

Artwork by Jiin Choi

丸之内点景

‥‥東京の盛り場を巡る‥‥

春の夜である。

今、活動がハネたばかりで、人浪は、帝劇から丸之内の一角を通つて、銀座につゞく。

「一寸、つき合へよ、アロハ・オエを一枚買つて行くんだ」

三人連れの海軍青年士官の会話スポークン・タイトル。

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春の夜の、コンクリートの建物の並んだ、丸之内の裏通りのごみ箱一つ見えない、アスフアルトの往来に、ふと、野菜サラダのにほひを感じたと芥川龍之介は書いてゐる。

この通りには、ところどころに西洋料理店はあるし、大方は、地下室が、料理場になつてゐて、ほ道とすれ/\に通風窓があるから、野菜サラダだらうが、かきフライであらうが、鼻が悪くない限りごみ箱を連想し、その所在を気にせずとも、それより遙に新鮮なにほひを感じるのは当然である。

当時、このあたりに洋食屋が一軒もなかつたと、好意的に解釈するとして――

今僕の前を行く、これも帝劇の帰りの慶応の学生も、洋食に関して極めて博学を示してゐる。

「日本の海老はラブスターとは、いはないんだね」

春の夜の丸之内の裏通りに、ふと洋食を感じるのは、どうやら春の夜の定式らしい。

*

相似形的二重露出

曇天の、丸ビルは大きな水さうに似てゐる。

中に、無数の目高が泳いでゐる。

*

丸ビルは、とても大きい愚鈍な顔をしてゐる。

殊に、夜が明けてから、朝のラツシユ・アワーになる迄の数時間の表情と来ては、早発性痴ほうよだれだ。よだれは敷石をぬらしてゐる。

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ドーナツツに穴のある様に、もつと現実的にいつて、便所の防臭剤に穴のある様に、丸ビルの内側にも、通風と採光の穴があいてゐる。

丸ビル、八階――

窓、窓、窓、窓、東向き――

一階、コーヒーを沸してゐる。

二階、女店員とコンパクト。

三階、ポマード頭。

四階、ヨーヨーをしてゐる。

五階、ヨーヨーをしてゐる。これはニウトンの戸惑ひをした表情だ。

六階、丁字形定規が動いてゐる。

七階、空室。

八階、窓硝子をふいてゐる。陸のカンカン虫。

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窓、窓、窓、窓、南向き――

一階、飯びつが乾してある。

二階、狸が狐を背負つてゐる。美容院。

三階、タイプライターをたゝいてゐる。

四階、手巾が乾してある。

五階、泣いて文書く人もある。これはうそだ。給仕が靴を磨いてゐる。

六階、盛に、お辞儀の連発だ。あれは借金の言訳をしてゐる。

七階、途端に、サイレンが鳴つた。

午砲のサイレンに変つたのは偶然ではない。これはまだしも空き腹に、応へない。

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この界わいの、ビルデングのボイラーたきは大方、らんちうを、その屋上に飼つてゐる。

暖かくなつて、ボイラーの方が暇になると一方は、食ひが立つて急がしくなる。

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極めて早朝、この界わいを、神田あたりの店員が、皆ユニホームを着て、皆自転車に乗つて、日比谷あたりに野球の練習に通るのを見かけたことがある。

これは僕の見た都会の情景の中での、好ましいものの一つである。

(「東京朝日新聞」昭和8年4月21日朝刊)



車中も亦愉し


汽車、電車、バスなどの公衆の交通機関は現代世相の風俗画とも言ふべきで、かういふ観点から例へば通勤の往復も極めて興味ありかつ有益な時間になるわけである。元来僕のなかには空想と観察が一緒にすんでゐるらしく、時に応じて新聞雑誌を読み、考へごとをし、連想し、退屈し、眠り、そしてまた乗り合はした人に興味や関心をひかれるといふ、この点極めて尋常の乗客なのであるが、それでも乗り物の中での記憶がいつのまにか頭のどこかに夥しくたまつてはゐる。モデルノロジイといふのがあるが、ああいふ事もやつてみれば面白いに相違ない。

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春から初夏へかけて伊豆方面にでも出かけるらしい団体と同じ列車にしばしば乗り合はせる。団体と一と口に言つても種々雑多な類ひがある。いつか、×××印蚊取り線香小売販売人御招待といふ団体のなかにまぎれこんだことがあつた。まだ春浅いことだつたので成程宣伝の世の中、商人の手廻しのいいのには感心もし、×××印蚊取り線香と染め抜いた青や赤の小旗をかざした人々の右往左往し、南京豆、のしいかに思ひ/\に小宴を張るさまが如何にも可笑しさにたへなかつたが、そのうち世話役らしい人が僕の所へやつて来てこちらにはお酒はまわりましたか知らといつて二合瓶をあてがはれた事がある。その中に割り込んだ僕を同行と間違へたものらしい。勿論僕は遠慮なく頂戴した。この蚊とり線香を用ひてしかもなほ蚊に悩まされた記憶もあれば、蚊も又安心して推賞するに足るこれは蚊取線香だつたのである。それにしても蚊取り線香販売人といふ見立てにはわれながら恐縮して、どうかと思つたことだつた。と言つて僕は菊石あばたではない。春先き蚊取線香の余徳で微醺を呼んだ僕はそれ以来寒中に近江の商人をなつかしむのである。

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何処行きの列車だつたか、いづれ急行でないから名古屋より先へ行く人ではあるまい。一人の田舎の老紳士の、学生らしい青年をつかまへて声高かに話してゐるのがボツクスを三つも離れた所まで手にとる様に聞へてくる。細面のくせに血色の良い、しかも頭は半白、元気は若者をしのぐ好々爺だつたが、大いに経国の本義を論じてゐるらしく、其の説たるや頗る珍重すべきものであつた。曰く“社会に犯罪者の絶えないのは生活が苦しいからである。然るに国家が警察網、司法権、刑務所の経営のために投ずる費用は極めて莫大なものであつて、若しこの莫大な費用を一般国民の生活の補助として分配するならば、国民の生活は向上し、したがつて犯罪者といふものは出なくなり、警察、裁判所、刑務所などを必要としなくなる”この説には僕も少なからず驚いた。古代希臘のソフイストの詭弁にみるやうな何か知ら南方的な呑気さのある点、甚だ面白いとも思ひ、かういふ楽天的な明朗な肯定精神をもつた老人もまたなかなかいいものだと感心した。この老人は金鎖に御大典の銀メタママルと五円の金貨を下げてゐた。

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これは東北の三等列車の中。直ぐ前にすわつてゐる一人の青年が買つて来て包みをほどいたばかりの本を読んでゐる。顔の青白く神経質にみえる割に着物の着ごなしなど田舎者らしく、村では相当のインテリ青年が啄木を好み暇と小遣ひを都合して上京し、ドイツ映画を鑑賞し、うまい珈琲をのみ、帰りに新刊書を買つて来たとでも思へる感じがいかにも好もしく、一体何を読んでゐるのか気をひかれたが、のぞきこむわけにもゆかず、そのうち幸ひトイレツトに立つたので置いて行つた本の表題をみると、これはまた意外にも『小心恐怖症の治療』とある。近来心臓のみ強い人の多い世の中に、気の毒にもまた頼もしい青年ではあるまいか。僕も一読の必要があるが未だその機を得ない。〈非広告〉

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これは省線のことで、大井町から酒場の女給風の女が乗りこんだ。といふだけではなんの変哲もないが、時間が朝の十時頃、女は店着らしい酒のしみの目立つ、ひどくくたびれた派手な着物で、さほどに車中は混んではゐなかつたが注目を一身にあつめた感じだつた。どうやら昨夜店が終つてから何処の仮寝かいま帰るものらしい。僕は別に好奇心も感じなかつたが、女は両手のなかにハンカチをしつかり握つてゐて、そのハンカチがまたしろじろと気高い程に新しい。僕は何となく芥川龍之介の『手巾ハンカチ』を思ひ出した。女は自分の立場の釈明や、周囲の冷眼に対する反発をこの純白のハンカチに託してゐたのだらうか。これも一つの作劇術に於ける臭味かもしれない。思ひなしか女の顔は悲しい、つかれた表情のかげにはりつめたほどに緊張してゐた。

ハンカチを有効に用ひた者はひとり不如帰の浪さんばかりではない。

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ここまで書いたら大船に着いた。僕は降りなければならぬ。これもまた車中の楽しみである。

(「話」昭和12年4月号)



ここが楢山

〈母を語る〉

母は明治八年生れ。三男二女をもうけて、僕はその二男に当る。他の兄妹は、それぞれ嫁をもらい、嫁にゆき、残った母と僕との生活が始まってもう二十年以上になる。

一人者の僕の処が居心地がいいのか、まだまだ僕から目が放せないのか、それは分らないが、とにかく、のんきに二人で暮している。

母は、朝早く夜早く、僕はその反対だから家にいても滅多にめしも一緒に食わない。

去年頃までは、なかなかの元気で、一人で食事の支度から雨戸の開けたて、僕の蒲団の上げおろしまでやってくれたが、今年から、いささか、へばって家政婦さんに来てもらっている。無理もない。八十四である。人間も使えば使えるものだと、つくづく思う。それにしても、五十五や六十の定年は早すぎる。

今住んでいる家は、北鎌倉の高みにあり、出かけるのも坂があるので、母は滅多に家から出ない。ここがもう楢山だと思っているらしい。

若いころの母は大女の部類で、今でも年の割には大婆の方である。負ってはみないが重そうである。

たらちねの母を背負いてそのあまり

重きに泣きて楢山にゆく

ここが楢山なら、いつまでいてもらってもいい。負って行く世話がなくて、僕も助かる。

(「週刊朝日」昭和33年8月10日号)