さまざまの海

高橋睦郎

Illustration by Hugo Muecke

「海」という言葉が私の中に入って来たのは四歳の時、母が中国の愛人のもとへ奔(はし)った折である。町まで買物に行って来る......と言って出かけた母は、十日たっても、一ト月たっても、帰って来なかった。三ヵ月して、中国から大きな郵便小包が届いた時、祖母ははじめて私に真実を明かした。

「かあちゃんな、支那に行とらすた」

「支那ちゃ何処ね?」

と、私は訊いた。返って来た答は「海」という未知の言葉ではじまっていた。

「海ン向うン、ずうっと遠ォかとこた」

言葉がはじめて幼い魂に訪れるときは、いつもこのように突然にあらわれる。はじめて私の幼い鼓膜を打ったUmiという音声の響きは、ただ黒黒とまるで表情のない、とてつもなく大きな何ものかを現出させた。その無表情な何ものかは、母と私のあいだに立ちふさがって、母と私を距てていた。ともすれば私は、おぼろげに感じとっていた母の愛の事件までを、このUmiという音声の意味の範疇に含めていたのかも知れない。

あらゆる幼な児がそうするように、私もまた急いで、現出した観念の落した実体を埋めようとした。

「海ちゃ何の事(こつ)?」

祖母は少し考えてから、

「堤ン如(ごつ)して、先ン方ン良(よ)ゥら見えん如、広ィろかとこた」

すると、Umiは、祖母の家の前にある堤、梅雨季(どき)にはほとんど道まで上り、夏の盛りにはからからに干上がって、浅い水たまりで魚たちが苦しい呼吸(いき)をしている堤、昼さがりから夕方にかけては食用蛙が牛の声をまね、夜が更けると向こう岸の茂みの中でヨッショイ鳥が「ヨッショイ、ヨッショイ」と鳴く堤、けつぐろがかいくぐり、電気とんぼがお尻の火を消す堤、祖母や父母と裸足ではまって田螺(たにし)や菱の実を採る堤を、両手の指の数ばかり集めたものになった。

祖母の説明は、海の定義としてはかなり不正確なものだ。だからと言って、祖母をせめるわけには行かない。祖母もおそらく若いころに一度、福岡県の西の八女郡で食いつめて、気弱な夫と幼い子どもたちを連れて直方へ移る途中、煤煙で汚れた汽車の窓から見たことがあるきりだったろう。あとは息子夫婦が住んだ八幡に行った折、たまに見ることがあったぐらいだろう。

祖母にとっても、祖父にとっても、生きるとはすなわち働くことで、潮干狩とも、海水浴ともおよそ縁がなかった。

一年後、帰国した母を迎えに、親戚の女に連れられて下関まで行った私は、はじめて海を見た。新駅から母のいるホテルへ急ぐ途中、町の家並が切れるごとに、家と家、倉庫と倉庫のあいだに、それはとどろくほどの深い青さで嵌めこまれていた。

「睦ちゃん、海ばい」

と教えられたとき、私はすぐこっくりをすることができた。家並の切れるたびに幾たびもあらわれる、とどろくほど深い青さに澄みきったそのものは、たしかに母と私を距てた海でなければならなかった。

一年ぶりに見る母は、ホテルの三階の海に張り出した出窓に籐椅子を持ち出して、掛けていた。濃い藍のクローバー模様の支那服を着た母は籐椅子に凭れ、その軽く組んだ白い腓(こむら)には不思議にこまかいものが揺れていた。出窓の硝子戸に頬を押しつけて、真下の陽光をみなぎらせて揺れているものを見て、私は母の腓で遊んでいるものもまた海の、こまかい破片であることを知った。

真上から覗き込む海は、途みち、家並がとぎれるたびに見た青い海とは違って、暗い、よどんだ、深い緑だった。私は母を顧みた。吸いかけの紙巻をはさんだ母の左手の薬指には、硝子戸の真下の海と同じいろの翡翠が光っていた。

翡翠の深い緑のせいだろうか、一年ぶりに見る母の指は心なしか白さを増し、肉(しし)置きも心持ち豊かになって見えた。そして、紙巻を唇に運ぶたびにひるがえる掌から腕にかけては、いくすじかの緑の静脈が美しく浮いていた。

海が私を距てているあいだに、母には目にそれとははっきり見えない、或る変化が起きていた。妻子ある人の家に、その妻子と共に住んだ一年、その人の子を胎り、堕胎医の力を借りて葬り去ったこと! そんなことを幼い私に誰かが告げたはずはない。けれども、幼な児に特有の敏感さから、母が昔のままの母でなくなったことを、私は無意識のうちに感じとっていた。謂わば、母と私を一つにし、そこから栄養のみならず感受性さえも融通無礙に行き来した臍の緒が完全に断ち切られたのだ。そして、その切断をなしたのは、ほかならぬ海なのだった。

祖母の家に帰った母は、下関近辺に借家さがしをはじめた。関釜連絡船の発着所のある下関が選ばれたのは、中国と下関を行き来している愛人の大串貫次郎の逗留しやすいつごうを考えてのことだろう。

下関の坂の多い町町、下関から汽車に乗って一つ目の幡生(はたぶ)という蓮池の多い田舎を、母に手を引かれて歩きながら、私はやはり以前のように屈託なく話しかけることはできなかった。つい昔に戻って愚にもつかないことを話しかけようとすると、坂の向うに、或いは松林を透いて、あの青い海があらわれた。海は、しっかりつないだ私と母の手のあいだにもしのび入り、私と母がもはや「母子」という一つの存在ではなく、「母」と「子」という独立した別別の存在の連繋されたものにすぎないことを意識させた。

一度は、祖母の家を出る時から私は下痢気味だった。どんよりと重い曇り空の下の下関の坂道や幡生の田舎道を歩きながら、私は黙って不快さに耐えつづけた。しかし、帰り途、関門連絡船の二階の座席に坐ったとき、私はもう我慢が出来なくなった。坐った私の尻の下で、海はゆるやかに揺れていた。私の尻を、そして、連絡船を乗せた海の揺れはあらゆる苦しい緊張を解いて、たわやすい弛緩に持って行くほどに優しかった。私は思わず腹と尻の緊張をゆるめて、国防色の半ズボンの中に洩らしてしまった。

連絡船を降りた門司港の駅の便所で、母はぶつくさ言いながら、私の麁相(そそう)の後始末をした。帰りの汽車の中でも、私は夢見心地だった。下痢のあとのけだるい

夢見心地の尻の下では、まだあの優しい海が揺れていた。私の座席の下には鉄の車輪が廻り、車輪の下にはレールがつづき、レールの下には砂利石のみで、どこまで行ってもあるはずのない海が......。

祖母の家に帰ってからも、その海は私の下で揺れつづけた。時には足を外にぶらぶらさせて絵本を眺めている縁側の下で。また時には母の下駄を穿いて諸式店(しょしきみせ)までラムネ水を買いに行く往還の下で。それから二十年以上たったいまでさえ、その海は時として私の夢の蒲団の下で揺れつづけている。

国民学校一年生に入学した夏、母と私はそれまでいた直方から北九州の港町、門司に家移(やおつ)りした。

その日まで約半年のあいだ、母と私は祖母の家を出て、一キロばかり離れた亀(かめ)ン甲(こ)の在の一人ばあさんという九十近い老女のうちの三畳間に間借りしていた。

私たちのささやかな家具は荷馬車の荷台にくくりつけられ、頬被りした馬車引きさんはまだ暗い朝の五時前から馬車を引いて、門司を目ざした。

私たちが一人ばあさんの家を出たのは十時すぎだったろうか。こども相手の駄菓子あきないをやっていた孤独な老女は、またぞろ一人ぼっちになり、間代も入らなくなることから、私たちの引越しに反対で、その思いきり屈まった躰を障子の内にひそめたきり、見送りにも出て来なかった。下関まで母を迎えに連れて行ってくれた親戚の女の人が、私たちの身のまわりのものを分け持ってくれて、今度も一緒だった。

二時半ごろ、新しい家に着いて、母たちは拭き掃除をはじめた。その家は門司もずっと西の小倉寄りにある大里(だいり)という町の、海岸から一筋山手の旧街道に添っていた。道を西に二町行ったところに、赤煉瓦づくりのお城のようなビール工場が聳えていた。そこでつくるビールを運ぶ荷馬車の響きに、道に面した玄関と座敷の硝子戸は四六時中ふるえつづけで、半年も空家だった畳の上は埃の山だった。

朝、暗いうちに直方を発った荷馬車は、夕方、暗くなってようやく新しい家に着いた。そのころには、母たちの掃除もどうやら終っていた。

翌る朝、私は早起きして海岸に出た。新しい家の左隣は幅三メートルほどの路地で、路地の突当りには船大工小屋、小屋の向うはすぐ海だった。

私は生れてはじめて、そんなにも近く海を見た。朝の海は満潮だった。船大工小屋の潮風に蝕まれた木組みの床を浸さんばかりにふくれあがった満潮の海は、ほとんど波立つというほどのこともなく、ちろちろと寄せては、ちろちろと引いて行く。

その色はかつて私が下関の家並のあいだに見た海とも、母と再会したホテルの三階の出窓から覗き込んだ海とも違っていた。それは青くも緑でもなく、セルロイドのように透明だった。セルロイドのように透明な海は、セルロイドのように汚れやすい海でもあった。と言うよりは、その透明さじたいが汚れを含んでいた。幼い私はそういう言葉を知る由もなかったが、その汚れは日常性という言葉に置き換えることもできただろう。

この日常的な海の透明さには、とどろくほどの青や吸い込まれそうな緑が持つ明晰な観念性はなかった。しかし、もっと卑近で、もっと狎れ狎れしく、もっと小狡く、したがって、もっとじわじわと気味悪かった。青い海も、緑の海も、そしてセルロイドいろの透明な海も、同じく「生み」とその同義語である「死」の歌をうたいつづけているのだが、透明な海の「生み」と「死」の歌ははるかに浸蝕的で、たとえば、波打ぎわに立っている私のあしゆびのひまひまにしのび込んで、柔かい皮膚を浸すように、私には感じとられた。

ちろちろと寄せては、ちろちろと引く。同じ単調な動きを繰り返しながら、海は次第に沖の方の海の重心に向って帰って行く。海の引いたあとには、みずみずしく濡れたあおさや砂をまぶったほんだわら、藁屑や木片などが、つまり「生み」と「死」の歌の残骸たちが、そのつど、そのつどの汀(みぎわ)のかたちをそのままに、幾すじも残った。

午後になって、私はアルマイトの小さな金盥を持って、海岸に出た。船大工小屋から海岸沿いに東に五十メートルほど行くと、新しい家の家主の製氷会社がある。そこの海岸の砂地に大きな角石がかたまっているのに、目をつけておいたのだ。

水のほとりの石の下には、生きものがいる。これは、母と一緒に基山のお不動詣りをしたとき、お滝場の流れのほとりで覚えたことだ。岸壁から砂地に下りて、力いっぱい石を起こすと、思ったとおり、いままで石のあった窪みには、引いて行った海が残した塩水がたまり、塩水の中には、海がその暗い腹から吐き出した小さな生きものたちが動いていた。

まことに海は渺茫たる大きさを持つ「大水(うみ)」であるとともに、あらゆるものを生み出してやまない「生み」でもあった。水たまりの中のドンコ、メクラドンコなどの幼魚たちは、どんなにすばやくくっつけてつくった掌の器を以てしても、捕えることができず、間もなく金盥の中は、小さくて、まだ鋏の威力のない磯蟹たちばかりになった。

私は、その八本の足と二本の鋏を持つ海の小怪獣たちのために、波打ぎわまで行って、新しい海水を汲んでやり、あまつさえ、その下にかくれることができるように、手ごろな石とあおさまで入れてやった。こんなにこまかく気を配ったにもかかわらず、次の朝になると、金盥の海水はなまぬくくなり、小怪獣たちは横筋の入った白い腹を見せて、一匹のこらず死んでいた。

その死のそっけなさは、海のうたう「死」のモチーフとは明らかに違っていた。海のうたう「死」は海のもう一つのモチーフである「生み」と分ちがたく結びついていて、その「死」には優しい宥和がある。しかし、海から切り離された死は、「生み」ともはや何のかかわりもなく放り出された、ただただ即物的なだけの死だった。金盥のまま海岸まで持って行って、これらの死を汀にそそぎながら、私は言葉としてでなく、これらのことを感じていた。

海が干ると、そこの砂浜は魚釣りの餌堀り場になった。ことに十五日目ごとの大潮の折は、狭い砂浜が餌掘る人でいっぱいになった。小さい石を起こしても、砂地を木切れで引掻いても、いくらもいるのは、赤いげじげじのようなけぶ(、、)である。けぶはもっぱら磯釣りに使う。沖釣りに用いる小指ほどのほんむし(、、、、)は、波打ぎわを深く掘り、何度も水をかい出して探さなければいかない。けぶを掘っているのはこどもたちで、ほんむしをさがしているのは漁師の大人たちだった。

私はあいも変らず、磯蟹集めだった。餌堀りの人たちに背を向けて、磯遊びにはおよそ不似合いの入浴用の金盥に、役にも立たない小蟹を泳がせている私の容子は、よほど滑稽だったにちがいない。けぶを入れる空き罐を持ったこどもたちは、寄って来ては覗き込み、なあんだ......という顔をして行ってしまう。(......)

波打ぎわに沿って、中腰になって歩いている女の子がいる。飽きもせず、磯蟹を金盥に入れながら、私はその女の子が汀から拾いあげるものを眺めていた。

女の子が波打ぎわを歩くのは、海の向うの彦島の空が夕焼け、はるかな沖から波打ぎわまで日没の薔薇いろに染まっている日暮れどきであることが多かった。その白い指が拾いあげるものは、ときとして夕焼けの炎をまともに受けて、美しく光った。

いつからか、私たちは短い会話をするようになっていた。女の子はヒロコちゃんといった。ヒロコちゃんの家は、私の家のまん前だった。表へ出て遊ぶことがなかったので、私はヒロコちゃんがどこの子であるかを知らなかったのだ。

ヒロコちゃんが波打ぎわから拾いあげているものは、硝子の破片(かけら)だった。空いろの硝子はサイダー瓶の破片だった。緑いろはラムネ水の瓶。茶いろはビール瓶。薄い透明な薬瓶。白濁したものや薄桃いろは化粧水やクリームの小瓶だった。ときには、何の瓶かわからない真紅や紫の破片が見つかることもあった。

ヒロコちゃんは、それらの破片を石の上でこまかく砕き、そのうちで一番綺麗なかたちに砕けたものだけを拾って、波打ぎわで濡らし、夕焼け空にかざして見せた。破片は沈む日の最後の光をいっぱいに吸いこんで、きらきら光った。ヒロコちゃんの豊かな頭髪(かみのけ)も、みずいろの柔かいカーディガンとスカートも夕焼けの炎にふちどられて、夢のように火(ほ)めいて見えた。

「宝石みたいやろ」

とヒロコちゃんは微笑んだ。宝石と言えば、戦時中ではまったくめずらしいボアのカーディガンをまとった柔かいヒロコちゃんの存在じたい、一つのめずらしい宝石のように、私には思えた。

「けんど、乾いたら、すぐ只の硝子になってしまうんよ」

いつかヒロコちゃんは、たいせつな宝石函を見せてくれたことがある。宝石函は小さな桐の空箱で、中に濃い緑いろの天鵞絨(びろうど)を敷いて、とっておきのにせ宝石たちが、にせダイヤが、にせルビーが、にせサファイヤが、にせエメラルドが、にせオパールが並んでいた。にせ宝石たちはすっかり乾いて、光を失っていたが、かつて塩水に漬けられた記念に、ほのかな磯の香りがした。

ヒロコちゃんのお父さんは女学校の校長先生で、だから、ヒロコちゃんはたくさんの本を持っていた。ヒロコちゃんに見せてもらった本の中で最も印象に残った話が二つある。

一つの話はこうだった。いいお天気の日の夕方、遠くを見ると、金の窓の家が見える。はるばる行ってみると、窓は只の硝子で、金いろに見えたのは日没をまともに受けたからだった......この話を私が好きだったのは、ヒロコちゃんのにせ宝石を連想させるからだったろう。

いま一つは、アンデルセンの「人魚姫」だった。陸に上った人魚姫が泳げないように、ヒロコちゃんも泳げない。しかし、泳げなくとも人魚姫がまぎれもなく海の娘であるように、ヒロコちゃんも正真正銘の海の少女だった。だからこそ、ヒロコちゃんは海の腹の中から、あんなにすばらしい宝物を引き出すことができたのだ。

汀から硝子の破片を拾いあげるヒロコちゃんの指は白く、節のところは淡い桜いろで、爪は瑪瑙のような朝焼けいろだった。手のぜんたいはしっとりとして、草の葉のような綺麗な血管が浮いていた。私はものがけで、そっと自分の手を拡げて見た。自分の手は、いろも黒く、妙にかさかさして、爪もいびつだった。私は母の姫鏡台からクリームをとり出して塗ってみた。けれども、私の手はヒロコちゃんの手のようにしっとりとかたちよくなることはない。私は、人間には綺麗なかたちよい手の持主と、いびつなぶきっちょな手の持主との二通りがあることを認識しないわけにはいかなかった。

或る日、海岸でしゃがんでその日の収穫を見せっこしあっていると、近所の男の子たちが五、六人通りかかった。男の子たちは私たちを見ると、聞こえよがしに言った。

「高橋は井上と一緒に風呂に入るんど」

井上というのはヒロコちゃんの姓だった。ヒロコちゃんはほんとうは井上照子というむずかしい名前だった。

私たちはたまに海岸で出会うだけで、むろん一緒に入浴したことなどはない。けれども、この悪童たちの嘘の中傷は恥ずかしいと同時に、奇妙に快いものだった。私はこの快さをかくすために、波打ぎわに出てやたらとあおさを拾っては捨てた。

ヒロコちゃんには欽ちゃんという精薄の弟がいた。或る日、欽ちゃんは路地から飛び出して、トラックにはねられた。小犬のような小さな驚愕の声を挙げて、欽ちゃんは即死だった。ヒロコちゃんは、しばらく家から出てこなかった。

或る夕方、私は拾って来た仔猫を、ヒロコちゃんの玄関の一枚だけ硝子のはずれた隙間から投げ込んだ。

次の夕方、私は海岸で久しぶりにヒロコちゃんに出会った。ヒロコちゃんは私に訊ねた。

「うちのお父さんが『少年が仔猫を投げこんだ』て言いよったけど、睦ちゃん、あんたやない?」

私は、何かを見すかされそうで、けんめいに打消した。

私はヒロコちゃんのことで、まことにプリミティブな占いをはじめた。たとえば、道ばたに丸太が投げ出してある。私はその丸太の上を注意ぶかく渡りながら、「もし向うまで渡れたらヒロコちゃんとケッコンできる。落ちたらケッコンできん」と、胸の中で考えていた。落ちるとはじめから何度もやりなおし、何度目かにやっと渡りきると、ほっと安堵の胸を撫でおろすのだった。

また、夕焼け空に対って下駄を放り投げる。他のこどもたちにとっては晴れか雨かを占う遊びが、私にとってはヒロコちゃんとケッコンできるかできないかの占いになった。

およそ、世界にある森羅万象の中で占いの材料(しろ)にならないものは、一つとしてなかった。そして、それらの占材(うらしろ)は、何度目かには必ず、私の願いの成就を約束した。けれども、私はあとで必ず自分の占いのいいかげんさに思いいたり、占いの結果の信憑性について不安になるのだった。

小学校五年のとき、ヒロコちゃんと私は同じクラスになった。私はヒロコちゃんと出くわしても、顔が紅潮してものが言えなくなった。授業時間中、先生に指されても、ヒロコちゃんが聞いていると思うと、私はしどろもどろになるのだった。

五年生の終りに校内マラソンがあった。十キロの道を走って、校門に近くなったとき、或る路地から思いがけずヒロコちゃんが跳び出して「高橋さん、がんばってッ」と言った。ヒロコちゃんは「睦ちゃん」と言わず、「高橋さん」と言った。この謂わば公的な表現の中に、ヒロコちゃんの私的な感情が籠められているような気がして、私は最後の力をふりしぼって駆けた。私は七十六等だった。


This excerpt consists of most of one chapter from the book Twelve Views from the Distance, forthcoming in Fall 2012 from the University of Minnesota Press.