生きている木と死んでいく木

伊藤比呂美

Artwork by Eliza Savage

春の初めに近所の大きな木が死んだ。死んだと言うべきか、殺されたと言うべきか、伐り倒されたと言うべきか、迷っていた。私には大きな事件だったが、しばらく語る気になれなかった。今やっと語る気になった。

コショウの木だ。ウルシ科のカリフォルニアコショウノキ。カリフォルニアというほどだから、当然この辺りにいくらでも生えている。見慣れているのですぐわかる。荒い肌で、ヤナギみたいな、シダみたいな、乗れ下がる葉に、赤い小さい実が鈴なりに生っている。それが、太く大きく育って道におおいかぶさっていたのである。

その木はずっとそこにあった。通るたびに感嘆した。鬱蒼ということばを思い出した。鬱に蒼だ。鬱々とした陰がうまれて、何もかもが蒼く見えた。通るたびに『となりのトトロ』のめいちゃんの声を思い出しながら「木のとんねるー」と思ったし、私がそう思うそばから子どもたちがめいちゃんの声色で「木のとんねるー」と口々に言った。「これだけ育つには百年近い年月が」と百年近く生きてきた夫が共感をこめて、同じことをいつも言った。

つまり家族の誰もがそれぞれの思いで愛着してきた木だった。木の裏には小さな家が数軒建っている。貸し家然としている。庭もなく塀もない。木の陰に隠れているのである。家より大きい木はずっとそこにあり、鬱蒼と道におおいかぶさっていた。

春の遅い朝だった。外に出かけていった娘が帰ってくるなりわめき立てた。木が切り倒されてる、と。唐突すぎてリアルさがなかった。ああこういうことが起きるのだと前からわかってたような気がした。何度もいろんなところで、こういう経験をしてきたのを思い出した。いつも私は何もできなかったと思い出した。死んでいく木たちを助けられずに、何度も何度も情けない思いをしたのを思い出した。

「木が病気になって朽ちはじめた」というストーリーを考えてみた。うちも昔、同じ理由で、松の木を切り倒したことがあったからだ。「電線を圧迫するので、市が切る措置を取った」というストーリーも考えてみた。いちばん考えたくないのは、そこの住人がその木をじゃまに思った、あるいは憎んだ、などという理由であった。

聞いてこようか、と末っ子のトメが言った。

聞けるわけないじゃない、と姉のサラ子が言った。

夕方はピンク色だった。東の空も西の空もはなばなしく染まりぬいた。私は、犬たちを連れてそこまで歩いていった。昔はよくここを歩いた。当時はまだ犬が若く、毎日遠出をしていたのである。その頃は、途中に犬のいる家が二軒あった。いつも吠えられた。私が連れていた犬は向こう見ずの若犬で、よその犬が吠えれば、ひとのテリトリーだろうが何だろうがおかまいなしに吠え返した。このたびもまた吠えられたが、昔若犬だった犬は、今やよぼよぼの婆犬になっていて、よその犬の存在なんてどうでもよくなっている。うちの犬が反応しないので、よその犬の吠え声を落ち着いて聞くことができ、その結果、威嚇と思っていた声が、実は自分を見ろ、見ろ、という見せびらかしだというのに気づいた。道すじにはアカシアが何本もあった。どれも咲きかけていた。オキザリスも一面に広がっていた。花がつぼんでいるのは夕方だったせいだ。多肉植物の植えられた庭があった。塀には蔓性のゼラニウムが無尽に這いのぼり、花を咲かせていた。

木は無くなっていた。道は広々と明るくなっていた。そしてなんとも、がらんとしていた。枝や幹を細かくかち割って、粉砕機にかけたようだ。メキシコ人たちが木屑を掃いていた。かれらはそこの住人かもしれないし、雇われて伐採を手伝っただけかもしれない。

木は跡形も無くなっていた。跡地には細かい、砂のような木屑がこんもりと盛り上がっていた。跡地は小さかった。三畳くらいしかなかった。こんな小さなところからあの巨大な木が生えだして、身を支えていたのかと思うと不思議であった。歩道がもりもりと堀り起こされてあった。足下に、葉が散り落ちていた。歩道の上にも、車道の上にも、葉が散らばっていた。切り倒される瞬間に葉が散ったのだ。倒された木が引きずられて解体されていくときにも、あたりいちめんに葉が降りしきったのだ。

木のことがあってから、しばらく哀しくてその道を通れずにいたのである。それからしばらくして日本に帰った。春のほとんどを熊本で過ごした。ちょうど妊娠中の長女のカノコも夫といっしょにやってきていた。それで、阿蘇の高森に連れて行って、大木を見せたいと考えていた。これは生きている木の話である。

熊本の高森というのは、阿蘇のすそ野である。熊本空港からほんの四十分だ。人家があって田畑がある。水が湧いて、あちこちに水源がある。商業化されつくした、みにくいのもあれば、地元の人が生活に使っている、共同井戸みたいのもある。ちょっと遠くまで行くと、木々の中の奥まったところにひっそりしているのもある。水の色は水面に映る木々ですっかり緑になり、水面のまん中に水神様の苔むした像が突き出ている。のぞきこむと池の底はびっしり苔で覆われて、魚が走る。あちこちから水が湧きあがる。湧きあがるところで水が動く。そういう水源もある。山をのぼりかけたところの崖の横っ腹から、ちょろちょろと流れ出ている水源もある。

あ、いや、水の話をしているのではなかった。木の話だ。高森に一本の年取ったサクラがある。一心行のサクラという。一心に行をする。そういう意味のこめられた木のようだ。その近くに高森殿のスギと呼ばれる大スギもある。

それで、カノコ夫婦を空港から連れ帰る途中に、一心行の大ザクラを見に立ち寄った。花期は過ぎ、花期の間じゅう催されていたけたたましい桜祭りも終わって、出店も舞台も取り払われているところだった。大ザクラはすっかり葉だらけだった。ヤマザクラとソメイヨシノの違いは、ソメイヨシノは花が終わってから葉が出るが、ヤマザクラは花と同時に赤い新芽が吹き出すところだと何かに書いてあった。

妊娠のカノコは夫と手をつないで、大ザクラの周囲を歩き回った。ごつごつと古びた枝に残っているサクラの花よりも、古ザクラの根元に咲きみだれている、スミレやオオイヌノフグリやカラスやスズメのエンドウたちを見て、これがなつかしい、子どもの頃に云々と、夫に話しかけていた。

帰りがけに私は考えた、大スギにも立ち寄れるかどうか。大ザクラの前の道をほんの三十分走れば、道のほとりに見過ごすための看板ですといわんばかりの小さい看板がひっそりと立ってるところに着く。行く手に小さな門がある。閉まっている。それを開けて中に入る。この門は牛が逃げないようにするためだ。中に入ると、牛の糞があちこちにある。もちろん踏んづけそうになる。前方に木立がある。鬱蒼として、湿って暗い。夏場は蚊に刺される。カズラやシダや苔がどこもかしこもおおっている。その中に無理矢理入りこんでいくと、そこに在るのだ、大スギが。根っこのところから二つに分かれている。上に伸び、つっかえて下に乗れる。そのうちに木自らが、自らを包みこむ。そのうちに見ている私たちのこともすっぽりと包みこむ。そういう木だ。

でも、どう計算しても時間がなかった。カノコたちは熊本に着いたばかりで、私は妊娠を家に連れて行って休ませなくちゃならなかった。出がけに父の具合が悪そうだったから、父のところにも急いで帰らなくちゃならなかった。予定では、三日後にまた二人を阿蘇に案内して、水源と火口を見て温泉に入ろうと思っていた。そのときに大スギも見ようと。

ところがその翌日に父が死んだ。父はカノコたちに会って、カノコの夫に「ないすとぅみーちゅー」と言った。それから妊娠のおなかと自分のおなかを比べてみせた。父はすっかりおなかの筋肉がしなびて、内臓を支えきれなくなって、下腹だけ膨らんだおなかになっていた。その夜、父の具合がさらに悪くなった。そして次の日に父は死んだ。私たちはばたばたした。病院や、葬式社や、親戚への連絡や。阿蘇行きは当然のことながら中止である。葬式社と銀行と病院に立ち寄った帰り、私はせめてもと思って、カノコたちを「寂心さんの樟」に連れて行った。父の遺体は葬式社の安置、おっと、そんなこと言ったら父が父らしくなくなってしまう。父は葬式社の一室を借りてそこにいた。いや、父は死んだのでもういない。だから「いる」も「いない」もないのだなと考えながら車を走らせた。

熊本市内から田原坂に行く田園地帯にさしかかる。向こうに樟の森が見える。近づくにつれ、森と思ったのはただ一本の大樟の繁みであることがわかる。整備されて公園になっているが、誰もいない。駐車場から樟に向こう道に、スミレやオオイヌノフグリやホトケノザやカラスやスズメのエンドウたちが咲き群れていた。

大樟の下を、カノコたちは手をつないで歩きまわった。私はクスノキの下に備えつけてあるベンチに寝転がった。

上を見て、木を見て、自分の手を見て、空を見た。薄曇りの空であった。しわだらけの大きい大きい木であった。しわだらけの疲れて哀しい手であった。見つめているうちに、ひとつ大きな間違いをしていたのに気づいた。この時期のクスノキが赤いのは新芽だとばかり思っていた。そうじゃなかった。古い葉が赤くなり、それは新芽の緑と入り交じっているのである。赤い葉が、風に吹かれて、葉桜になりかけたときの花びらのように、いちめんに降りそそいだ。

もう一つ語りたい木がある。それからしばらくして、私はカリフォルニアに帰ったのだ。そしたら、うちの近所の、末っ子のトメの学校から家に帰る道すじで、この辺りでは見慣れない、でもなつかしく思えてしょうがない花の咲く木があるのに気がついた。花は紫で、花弁は細くて、十字みたいにクッキリと見える。花が木全体をおおっている。花の下にぴかぴかした緑の葉が隠れている。あんまりきれいなので、そこを通るたびに車の速度をゆるめて感嘆していたが、ある日とうとう車を停めて、トメに花と葉を少しずつちぎり取ってくるように言いつけた。トメはいい子で、そんな恥ずかしいことを親に言われるままにする。そしてちぎり取ってきた花と葉を見て、私は確信したのだ。これはセンダン。アジア原産、熊本にも原産の、センダン科センダン属のセンダン。漢字で書くと栴檀であった。

センダンの木は成長が早い。熊本の坪井川の河原に二十年ほど前に生え出したやつはもう大木になって陰を作っている。自生するだけじゃない。公園のあちこちに植えられてある。冬には葉が落ちてむき出しになった枝に黄色い実が乗れ下がる。

この木のことを長い間ハゼノキと思いこんでいた。ハゼノキは蠟が取れる。だから肥後藩が奨励した。大津から阿蘇を抜けて大分に出る旧街道沿いに植えられていた。昔、熊本に引っ越して来たばかりのとき、街道のその木を、あれはハゼノキと人に教えられた覚えがある。

街道の木はともかく、河原に生得ているのはハゼノキじゃなくてセンダンだ。それがわかったのは三年前、その四月に母が死んで、四月五月にあわただしく熊本とカリフォルニアを行き来した。そのときあちこちで、この木が咲き始め、咲きほこった。

ハゼノキとセンダン、実はそっくりだが花が違う。ハゼノキの花は目立たない。センダンの花ははなやかで五月が花期である。そしてこのたび、南カリフォルニアのうちの近所でトメが摘んできたのは、まさしくセンダン。

よく見れば花は白紫の二色である。十字みたいという印象は、花弁が細くてクッキリしているからで、実は五弁あった。そひて目が覚めるほどの芳香を持っていた。きーんと鋭い、力強い芳香が、たった二ひらの花のために、家じゅうにみちみちた。

今、センダンは熊本の坪井川の河原のあそことあそこで、公園のあそこでも、いっぱいに花を咲かせているはずだ。目に浮かぶ。父も四月に死んだのだが、もうそこには誰もいないから、私は四月五月と熊本に帰らなくてもいいのである。

私もいなけりゃ、父もいない、母もいない。そう思うとぽっかりと空虚である。

見なくてもわかる。河原のあそこで、センダンは風に吹かれて散り落ちている。河原の繁みの中では、雄のキジが雌を恋しがって鳴いている。ノイバラは爛熟しきって、河原じゅうが天花粉をはたいたみたいに白くなっている。