ペダルを踏んで、見て会って考えた 『奥の細道』を巡る旅から

Durian Sukegawa

Artwork by Ishibashi Chiharu

ドリアン助川

 今年1月に福島第一原発の構内に入った。廃炉作業のための設備が並ぶ光景は目に馴染みがないフォルムの連続で、まるで他の星の宇宙基地に来てしまったかのような印象を受けた。強烈な放射線を浴びているという緊張感に加え、とうとうここまで来てしまったかと、途方もなく長い旅をしているような気分にもなった。線量計を携え、自転車のペダルを漕ぎだしたあの夏の日がここにつながるとは、自身想像もしていなかった。
 発端は、2012年の夏だった。私はその頃、学生が楽しんで読める古典の口語訳本を作ろうとしていた。手始めにと選んだのが、『奥の細道』だった。
 1カ月かけてその作業を終えた。だが書いているうちに、自分の仕事のようには思えなくなってきた。芭蕉が囁く。「お前はいつから自分の本分を忘れてしまったのか? 東欧革命やカンボジアPKOを現地取材したお前が、いったいそこで何をしている?」

自転車でみちのくを行く
 
 松尾芭蕉と門弟の河合曽良が、みちのくを目指し壮大な旅に出たのは、今から330年も前の元禄2年のことだ。2人は東京深川から埼玉、栃木、福島、宮城、岩手と北上し、山形の山岳地帯を越え、秋田の象潟きさかたへも足を延ばした。庄内地方からはひたすら日本海に沿って南下し、新潟、富山、石川、福井、滋賀、岐阜の大垣を結びとする旅をした。この道のりは、震災と原発事故の被災地、そして過疎という、日本が直面する問題が混在した場所を通っている。ならば、その路を自分の足で歩き、自分の目で見てみることで、メディアが伝えきれていない震災後の日本の姿を知ることができるのではないか。そう思った。
 ただ、歩いていてはいつ帰ってこられるのかわからない。私は折り畳み自転車を買い、リュックサックに線量計を入れて旅に出ることにした。震災翌年の8月半ば、炎天下の道を行く旅の始まりだった。やり方はこうだ。1週間ほど汗を流しては自転車を畳み、電車に乗って東京に戻ってくる。そしてまた翌月に1週間の休みを取り、前回進んだ場所から新たな旅を継いでいく。
 こうしてのべ4週間を使い、『奥の細道』のほぼ全行程を辿った。パンクした自転車を押しながら結びの大垣に着いたときには11月半ばになっていた。
 この間、決して多くはないけれど、心からの言葉を交わせる出会いがあった。仮設住宅で暮らさずとも、土地の被曝によって生活の基盤を奪われた人々は山ほどいる。メディアではなかなか表出しないみなさんの声は、文字を綴る私の心に火をつけた。同時に大いなる葛藤を抱えることにもなった。この旅の記録を一度は封印しようと思うくらい、私は悩んだのだった。
 各地の線量や、出会った風景と人情の物語は、この旅をまとめた『線量計と奥の細道』(幻戯書房)をお読みいただくか、旅の写真を背景にした私の朗読パフォーマンスを観てもらうしかないのだが、本稿では、心に染みた出会いのなかの数例を紹介したいと思う。

カバーをかけて「除染済み」

 栃木北部の那須では、途方に暮れていた農園のご夫婦と出会った。このご夫婦は和牛の繁殖業を中心に、堆肥たいひを使った循環農業で野菜や米を作っていた。だが、原発事故でそれがすべてだめになった。
 栃木北部にも高濃度の放射性物質が降った。しかしその事実は当初、那須のみなさんにはまったく知らされなかったのだという。ご夫婦は福島からの避難の車列を見ながら、ここは大丈夫なのだろうかと不安な日々を過ごしたらしい。
 線量計の針が振り切れたと教えてくれたのは通いの獣医さんだった。そのときはもう遅かった。汚染された藁や牧草を牛たちが食べてしまった。牛は高濃度に汚染され、出荷できなくなった。ご夫婦は和牛の繁殖業をやめることにした。10万ベクレル以上に汚染された土や堆肥は防護服を着た作業員たちによって1カ所に集められた。だが、汚染土をよそに持っていくことはできない。猛毒の土はカバーをかけられただけで、農園の片隅に置かれていた。これでも行政的には「除染済み」となるのだ。
 補償への道は遠いとご主人は言った。那須の農家はみな弱り果てているとも。
 「このままでは首を吊る農家が出てきますよ」
 牛小屋では子牛が生まれたばかりだという。繁殖業を廃業しても、生まれてしまったのだから育てるしかない。
 「ああ、3月11日以前に戻ってくれないかなあ」
 ご主人は何度もこの言葉を繰り返した。

汚染の数値公表は正義か?

 那須からすぐ、県境を越えた福島の西郷にしごう村では、キリスト教団体の福祉施設を訪れた。知的障碍に加え、幼児虐待やネグレクトで家を失った子供たちが暮らしている。園庭はすでに除染されていたが、通路脇のモニタリングポストは0・59μSv(マイクロシーベルト)毎時という線量を示していた。
 ここでは牧師でもある園長先生から話を伺った。
 「放射能汚染による人体への影響以前の問題として、まず基本的人権の蹂躙があります」
 誕生日は祝うのだということを、園に来てから初めて知った子供たちが多いという。なんとか普通の生活をさせてあげたいという先生がたの思いがあるなか、今回の原発事故が起きた。
 西郷村一帯も福島の他の地域と同じく高濃度に汚染された。子供たちは夏場でも長袖を着て、窓を閉め切った部屋で暮らさなければならなくなった。外では遊べない。行きたいところに行けない。食べたいものも食べられない。まさに人権を失している状態だ。
 この福祉施設でも、剥ぎ取られた園庭の土は隅に盛られブルーシートをかけられていた。園の外に出すことが許されないからだ。すぐ横には飛行機形の遊具があった。試しにそこで線量計を出してみると、1・62μSv毎時という高い数値が出た。子供たちが手に触れる可能性がある場所で、強制避難地域なみの線量だ。
 園長さんは語気を強めておっしゃった。
 「たしかにひどい数値です。ならば出ていけばいいというが、子供たちを抱えてどこに出ていけるというのか。私たちはここで暮らすしかないのです」
 もっともな言葉だ。汚染地域だとはいえ、大半の人は移住などできない。
 私の胸には迷いが生じ始めた。線量を測って歩き、苦しみの声に耳を傾けることはある種のフェアな行為だと信じていた。だが、そこで暮らし続けるしかない人々の苦しみを知った上で線量の数値を公表することが果たして正義と言えるのかどうか。この葛藤は旅について回る重しとなった。

「無理に戻ってこなくていいから」

 福島市内では軒並み高い線量を計測した。市中心部の信夫山しのぶやまで1・34μSv毎時。麓の高校の校庭では部活動の生徒たちが激しいランニングをしていた。土ぼこりも吸いこむだろう。この子たちは大丈夫なのかと心配する私の方がどうかしているのだろうか。
 住宅街でもある文知摺もちずり観音周辺では1・48μSv毎時の数値が出た。周囲ではごく普通に人々が暮らしている。だが、畑の農作物は一カ所に集められ、腐敗していた。おそらくは出荷できないのだ。
 高い線量に唖然としながらも、この夜は福島市内のWさんの家に泊めてもらった。Wさんは塾教師のかたわら、放置された畑を借りて開墾し、自給のための野菜を育ててきた。また奥羽山脈のブナ林に入ってイワナを釣り、キノコを探し、山菜や木の実を採取する生活をしてきた。縄文人の暮らしにヒントを得た自然との共棲だったという。
 原発事故以降、畑はやはり汚染され農作物を育てることが不可能になった。渓流魚も基準値の100ベクレルを超えているため釣ることができない。Wさんは生活のフィールドを失ったのだ。
 「でもね、自分はこの自然の一部ですから。安心できなくなったから捨ててよそへ行けばいい、というのは現代人の身勝手であるような気がするんですよね」
 福島名物の円盤餃子を肴に酒を酌み交わしたWさんだったが、そばにいた高校生の娘さんにはこう話した。
 「大学で福島から出ていきなさい。無理に戻ってこなくていいから」
 娘さんは返事をしなかった。その沈黙の時間が、私の耳には声にならない悲嘆として届いた。

炎天下で旅の意義を想う

 福島市から宮城県境に向けて、国道4号は延々と上り坂が続く。ここはきつかった。漕いでも漕いでも坂が現れる。
 炎天下の坂道で、農家の奥さんたちが桃や梨を売っていた。奥さんたちの頭上にはパラソルがあったが、アスファルトの路上なのだからうだる熱気はたいへんなものだろう。でも、車を止めて果物を買おうという人は見当たらなかった。
 原発事故以来、福島の農家は除染作業に追われた。土を入れ替え、果樹の皮を剥ぎ、なんとか食べてもらえる桃や梨を作ろうとした。その結果、基準値を超えない果実がようやく収穫できるようになった。しかし売り上げは伸びない。福島産と聞けば、消費者は手を出さない空気になっている。そして今路上に座り続け、奥さんたちはどんな気持ちだろう。
 やはりここで思った。復興に向け、必死になって立ち上がろうとしている人たちにとっては、線量の話題が出るだけでもいやなものだろう。福島の大半が汚染された事実をなかったことにするのは無理な話だが、ここで農業を営んで暮らしていこうとする人々にとっては、触れて欲しくないのが本音ではないか。
 では、私は何をやろうとしているのか。このまま自分だけの旅として収めるべきではないのか。

似顔絵師と大道芸人

 その後、私は仙台、多賀城、塩竈と走り抜け、津波の爪痕がそのまま残っている東松島から石巻に入った。石巻は震災から1年半が過ぎても街の半分は壊れたままだった。
 ここで2人の被災者に会った。1人は似顔絵師だ。津波の水が引くまでの2日間、家族とともに屋根に上り救助を待ったという。全員助かったが、街は壊滅状態だ。絵の道具もすべて流された。家族それぞれの奮闘、生きていくための総力戦が始まった。大道芸人の仲間たちが絵の道具を送ってくれて、似顔絵師の仕事が再開できるようになったのは震災から半年後だった。
 ところがここで変化があった。お客さんのなかに家族を亡くした人たちが交じり始めたのだ。小学校に入学する予定だったお子さんの写真を持ってお母さんがやってくる。せめて絵の上だけでも成長させて欲しいと。お母さんは泣きながら絵の仕上がりを待つ。似顔絵師も泣きながら描く。こうしたことが続いた。
 似顔絵師は精神的に不安定になり、一人のときに声をあげて泣いたりするようになった。そんなとき奥さんが、「それは供養なのよ」とつぶやいた。そのひと言から、彼はこの仕事を被災地で続ける覚悟ができたのだという。
 もう1人は、オルガンを弾く大道芸人だ。パニック障碍の症状があるこの音楽家は、最愛の母親を失った2カ月後に被災した。オルガンを車に積み北上川の土手に避難、4日間何も食べずに過ごしたのだという。今は仮設住宅に暮らし、道の駅の片隅でオルガンを弾いている。昼食は道の駅の食堂からいただいているが、あとは投げ銭を頼りに暮らしている。すると、被災者であろう石巻を出て行く人たちが、彼の前に来て曲をリクエストするようになった。ある日「ふるさと」を頼まれ、言われるままに弾きだしたところ、途中で泣き始めた女性は涙が止まらなくなり、号泣に変わった。実に多くの人々が震災によって心に深い傷を負っていると、彼は強く感じたそうだ。

焦げた校舎と子供たち

 この石巻でもっとも胸を締め付けられたのは、焼け焦げた校舎の前で野球をする子供たちだった。
 津波を受け、さらに火災で燃え上がった小学校がそのまま放置されていた。校庭では揃いのユニフォームを着た子供たちが球を追いかけていた。それを見ているうち、目の前が滲みだして困った。
 報道から知っていた。日本中から、いや世界中から届いた多額の寄付金。復興のためのその財源のなかから、42億円がいち早く「高速増殖炉もんじゅ」の予算として計上されたことを。だが、その復興財源はまだここにはやってこない。なぜこの小学校は1年半も放ったらかしなのか。ものには当然優先順位があるだろう。しかし、この子たちの環境よりも、問題だらけで停止したままの高速増殖炉の方が先なのはいったいどういうわけなのか。私たちはこの子たちに何を残そうとしているのか。悔しくて奥歯を噛んだ。
 翌日は雨に降られた。疲労からか、小学校の子供たちの姿がショックだったからか、大粒の雨に叩かれながら自分自身も決壊しそうになった。こんなことをしていて何になるんだろうという思いが込み上げてきた。移住を選べなかった人々は、誰もが放射線のことなど忘れてしまいたいに違いない。ずぶずぶの雨に濡れながら、私は中尊寺のお堂を巡った。そして、もうやめて帰ろうと思った。
 すると目の前に、義経堂ぎけいどうの山があった。源義経が最後に自害したとされる高館たかだちのあったところだ。私は水を滴らせながら、長い階段を登り始めた。なぜか雨が止み、急に陽が差してきた。私は階段を登り切った。そして頭を上げた。
 義経が見た最後の風景。そこに巨大な虹がかかっていた。
 「それでも、旅を続けなさい」
 芭蕉に、またそう囁かれたような気がした。

出会った人々のその後

 ここからまた『奥の細道』の旅は続いた。そして、毎年のように福島や栃木へ足を運ぶようになった。知り合った人々と再会することと、変化していく線量を確認することが目的だった。
 和牛の繁殖業を廃業した那須の農園は麻の栽培免許を取り、農家として新しく立ち上がった。田畑の土をすべて変えたので野菜や米からは線量の検出がない。私のライブパフォーマンスや俳優中村敦夫さんの朗読劇『線量計が鳴る』といった舞台も、農園のなかにあるお堂でやらせていただいた。
 ただ、除染をしていない牧草地などはいまだ線量が高い。排除された堆肥や藁もいまだ農園の隅に放置されたままだ。ご主人は原発事故が起きた頃のことを今あまり思い出せないのだという。それだけ精神的に追い込まれていたのだろう。
 西郷村の福祉施設では敷地すべての除染が行われた。ブルーシートをかけられていた汚染土は村内の仮置き場に運ばれたのだが、最初に除染を行った園庭の線量はわずかながら上がったという。山からセシウムが降りてきているのだ。
 子供たちは自ら進んでは外で遊ばなくなったと園長先生はおっしゃる。また、福祉施設の若い女性の働き手が目に見えて減っているらしい。この変化が福島の将来にどんな影響を与えるのか。
 いっしょに餃子で酒を飲んだ福島市のWさんは畑の土を取り替え、作物を育てる楽しみを取り戻しつつある。しかし山や川は復活したとはとても言えないそうだ。キノコや山菜はいまだ線量が高く、渓流魚も禁漁が続いている。
 「風評被害と実害とをはっきり区別してもらいたい」
 Wさんは言う。風評被害を恐れて人が
口をつぐんでいるうちに、自分たちのなかでも原発災害が風化しだしているのではないか。
 ちなみに、Wさんの娘さんは東京の大学に進学したが、卒業後は福島に戻ってきた。今は親元から勤めに出ている。

森林は除染できるのか

 毎年のように各地で測っていると、除染した市街地部はもちろん、他の場所でも線量がすこしずつ低くなっていることに気付く。しかしなかには逆の現象が見られた地もあった。
 たとえば、栃木北部の芦野温泉郷から田園地帯を進んだ地にある「遊行柳」の周辺がそうだ。震災翌年の旅では、0・19 μSv毎時の数値を得た。ところが、2016年に測ったところ、数値は0・36μSvと倍近くにアップしていた。
 どうしてこんなことが起きるのか。答えはとてもシンプルだ。山に降り注いだ放射性物質が、雨水に溶け、落ち葉に乗り、時間とともに降りてきたからだ。
 これは深刻なことだと思う。なぜなら、栃木県はその55%、福島県は70 %以上が森林なのだ。除染とは土を剥ぐことだ。森林や山間部ではとてもできる作業ではない。仮に街のすべてを除染したとしても、森林にはたんまりと放射性物質が残っているのだから、それがじわじわと降りてくることになる。実に長い責め苦が続くのだ。
 では、森林の除染は本当にできないのだろうか。やっている場所がある。2016年に福島市の信夫山を訪れると、山頂が禿げ山になり、汚染土の入ったフレコンバッグが並んでいた。そしてその付近には次の一節を含む、仮置き場としての表示が立てられていた。
 『信夫山の景観に配慮して、みどり色の紫外線保護シートで全体を覆います』
 これは、誰がどういうつもりで書いた文章なのだろう。芭蕉の時代から愛された山の木を伐り、土を剥ぎ、汚染土を所狭しと並べ、その挙げ句に出てくる「景観に配慮」という言葉を私たちはどう受け止めればいいのか。
 まあ、待て、それでも除染を進めるしかないではないかという人もなかにはいるだろう。しかし、いくらその作業をしたところで問題の解決にはほど遠いのではないか、というのが私の正直な意見だ。日本中どこを探しても放射性物質の最終処分場はないのだから、黒いフレコンバッグは仮置き場にあふれ、あるいは土中に埋められ、そこに永々と在り続けることになる。避難地域を含む福島の海岸線沿いの土地を訪れたときは、海浜のすべてが黒く埋め尽くされていた。これが今後どんどん増えていくのだ。

福島第一原発へ

 さて、福島第一原発である。原発事故のその後を考える私の歩みは、芭蕉の足跡を自転車で辿る旅から始まり、歳月を経るなかで定点観測へ、そしていよいよ事故を起こした本体へと遡行した。
 『奥の細道』のときはただ1人の行為であったが、現在の私は原発問題や海洋汚染をテーマに活動する日本ペンクラブの「環境委員会」に属している。このグループの再三の申請が通り、東京電力からようやく入構の許可が降りたのだ。 日本ペンクラブ吉岡忍会長を始め、総勢20名ほどの福島行きとなった。
 まずは長い間避難地域となっていた富岡町に入り、東京電力の廃炉資料館を訪れた。第一原発に入る前にここを訪れて欲しいと東電側から要請があったのだ。
 この資料館では、第一原発を襲った津波、水素爆発によって吹き飛ぶ原発建屋の映像などを含め、あのとき何が起きたのかの丁寧な説明があった。加えて、廃炉作業のために今何が行われているのか、各号機に残っている燃料棒は何本なのか、燃料が溶けたデブリはどのような状態で残存しているのかなど、デジタル映像によるこれまた詳しい展示や解説があった。ここで原発と廃炉に関する基礎知識を得た上で、第一原発の現状を観て欲しいという東電側の配慮だったと思われる。
 資料館を出たあとは、東電が用意したバスに乗り、いよいよ第一原発に向かった。強制避難が解かれたとはいっても、富岡町から大熊町へ通じる国道6号からの風景は震災直後のままだ。家々の屋根は崩れ、店舗のガラスは割れたまま放置されている。事故が起きるまでは原発に良いイメージを持っていた住人もいたのだろう。廃墟に残された『回転寿司アトム』の看板が、震災以前のこの地の雰囲気を寂しげに伝えていた。

廃炉期間30~40年の根拠

 第一原発の構内に入るためには空港の保安検査場なみのチェックがあった。防護服の着用は必要ではなかったが、両手に物は持てず、写真撮影も禁止という条件での視察だ。東電が用意した巡回用のバスで、案内役の社員の解説を聞きながら決められたコースを回ることになる。バスから降りて歩くことはできない。
 バスのなかにいても放射線は浴びるので、案内役がいちいち線量を読み上げてくれる。構内では平均して40μSv毎時ほどあったろうか。一瞬ではあったが、強烈な放射線も浴びた。水素爆発を起こした3号機の真横まで進んだときだった。案内役が読み上げる線量は280μSvだったが、私たちが持参した線量計では400μSvと出た。いずれにしても、そこに居続けるわけにはいかないとんでもない線量だった。
 「これだけの放射線を浴びてもなにも感じない。自覚がない」
 「こわいね」
 私たちはそんなことを話しながら、汚染水を溜めこんだ巨大なタンクや、破壊された原子炉建屋、キュリオンと呼ばれるセシウム吸着装置、延々と並ぶ放射性廃棄物貯蔵庫などを眺めていた。そして視察が終わったあと、もう一度廃炉資料館に戻り、案内役の社員との質疑応答となった。私はそこで、かねてから疑問に思っていたことを尋ねてみた。
 「まだ燃料棒とデブリが残っている1号機から3号機まで、すべての廃炉作業が終わるのにあと30年から40年かかると言われていますよね。この年数の根拠は何ですか?」
 案内役の社員はすこし考える表情になったが、落ち着いた口調でこう話した。
 「参考にしているのはスリーマイル島の原発事故です。あちらではひとつの原子炉の廃炉に10年かかりました。こちらは3つあるので30年から40ということです」
 そんな単純な比較でいいのだろうか。まずそのことを思った。スリーマイル島の事故でもメルトダウンは起きたが、原子炉から放射性物質が噴き出す事態には至らなかった。こちらはデブリの確認が精一杯で、それをどうやって取り出すのかまだ明確な方法さえわかっていない。「根拠にならないのでは?」と再度問いかけると、案内役の社員はうなずいた。「根拠は……ないと言えばないですね。百年かかるかもしれないし、技術の進歩でもっと早く解決するかもしれない」
 廃炉作業には今でも年間2千億円がかかっている。40年なら8兆円だ。これはやがて国民が負担する負債となる。しかも根拠はないと認めてくれた。さらにふくれあがる可能性がある。「だから……」と案内役は続けた。
 「どうしても柏崎刈羽原発を再稼働させたいのです。そうすれば、年間で千億円ほどが浮きます」
 とても誠実に話してくれる社員ではあったが、私たちとはやはり感覚が違うと思った。再稼働を進めようとする為政者と同じで、徹底的に国民不在なのだ。
 自転車を漕ぐところから始まった原発問題を巡る私の旅は、ついに第一原発の構内に入り、東電の社員から本音を聞き出すところまで来た。
 しかし、私はここからいったいどこに向かえばいいのだろう。

© Durian Sukegawa



The original Japanese text first appeared in Journalism (Asahi Shimbun, March 2019).

最初の掲載は『ジャーナリズム』(朝日新聞社・2019年3月)です.