An interview with Motoyuki Shibata
Sim Yee Chiang
Asymptote まず、昨年発表されたトマス・ピンチョンの『メイスン&ディクスン』についてお伺いしたいと思います。上巻をまだ読み終えていないが、一見するだけで訳者の様々な工夫がわかり、特に現代調と古典調との混じり合いをとても興味深く感じました。小説のトーンを定めるのは、どんなプロセスでしたか。
柴田元幸 えーっと、手探りですね。どんな小説でもそうですけれども、最初訳し始める時に、この小説はこういうトーンかなあっていう、もちろん、漠然としたアイデアはありますけど、その時点では正しく掴めてるっていうことはまずなくて、やっているうちに段々、この小説は、この文章は、こういうふうに訳されたがっているんだなあって、見えてくるんですね。だから最後まで訳して、最初に戻ると、もう最初の部分はほとんど書き直しになりますね。『メイスン&ディクスン』の場合は、原文が18世紀の擬古文で書いてあるから、トーンはどうするかっていうのは、もうちょっと意図的に、ほかよりも意識的にそういうことは考えましたね。最初手探りでやっているうちから、まずは字面の異様さというか普通じゃなさを再現したかった。原文を読むと、とにかく大文字がやたら多くて、名詞はほとんど大文字ではじまるっていう......ぱっと見に異様ですよね、この感じはどうやって出すのかなあ、ということを考えた。それで結局、送り仮名を極端に少なく、普通だったら「決まる」の「ま」は入れるわけだけど、それを入れないとか、それでまあ、普通より漢字を多くするということにしました。ただ、単にそれをやると読みにくくなるので、それでどうしたらいいかなあということを考えて、ある意味で一石二鳥なんですけれども、ルビを多くすることを考えた。明治の、たとえば新聞って総ルビだったんですよね。まだリテラシーが低いからさ、漢字に全部ルビをふったわけです。今も子供の本なんかはそうだけど、大人の文章でルビが多くて漢字も多いというのは、古めかしい感じにはなって、かつ、読みやすくなるっていうか、難しい漢字も使うことができるっていうことで......しかしこんな話を英語でやるのは大変だよね(笑)。まあいいや。とにかく送り仮名を減らし、漢字を多用しルビを多くするということ。確かに18世紀の英語なんだけれども、やっぱり、日本の18世紀をそこに引き込むのは無理だし、意味もない。だけど、何か新しいものが発見されている、つまりメイスンとディクスンがアメリカという、まあヨーロッパ人にとってまだまだ未知の地に行って、新しい世界を発見するっていう、その、発見の感じが、テキストの字面に表れていると思うんですよね。そのことを再現するためには、やっぱり感じとしては明治に戻るのがいいだろうと思った。明治時代にそれこそloveとかさnatureとか、そういう言葉さえどう訳していいか、よくわからなかった時代に、一つひとつ訳語を作っていたわけですよね。そういうプロセスを再現したかった。そこで避けたかったのは、カタカナ語を使うこと。だから一応カタカナの名詞はひとつもないと思うんですね。全部漢字をあてて、それにカタカナのルビをあてる。そうやって、メイスンとディクスンがアメリカを発見していくっていうことを、原書において読者が追体験するとすれば、翻訳では、西洋的なものを明治の読者が発見していくプロセスを、今の平成の読者が追体験するという、まあ、何か口で言うとややこしいんですけど、そういうことをやろうとしたんです。
A ポール・オースターをはじめとして、ダイベック、ユアグロー、ミルハウザー、エリクソン、ゴーリー、パワーズなど本当に幅広い作品を翻訳、言い換えれば吸収・再現なさったことで、ある種の腹話術を得られたのではないかと感じています。その中で、先生にとってとりわけ成り切りやすい、耳を澄ませば聞き分けやすい声はありますか。
柴田 腹話術という言い方はしっくりきますね。とにかく(翻訳というのは)自分を消す作業なので......要するに原書があって、僕を通って訳文が出て来るわけだけど、通る時にあまり変わらないほうがいい。そこで余計なものがなるべく入らないことですね。後半の質問は、まあやっぱりポール・オースターですね。書かれている世界として、自分が訳すのがいいのかもしれないと思えるのはスチュアート・ダイベックで、それは彼が主に描くシカゴの下町と、僕が育った京浜工業地帯とがすごく似ているから。だからこの世界、この埃っぽい感じとかわかるということでね。それからミルハウザーの、いちいち説明しないと気が済まない几帳面さっていうのも割とわかるので、ぼくはずぼらな人間ですけど、ああいうのもすごく共感し......まあ、何冊も訳している作家みんな、それぞれやりやすいと言えますね。それぞれ再現すべき、一番再現したいものは違って、例えばオースターだったらとにかく文章の音楽性ですよね。再現すべきものは違うんだけど、それを再現する喜びはまあみんな同じ、それが要するに腹話術をやるっていうことですね。
A 今までアメリカ文学を中心としてご活躍なさっていらっしゃいましたが、ほかの英語圏の文学を試そうというお気持ちは?
柴田 うん、やっぱり古典をもっとやりたいと思うようになってきましたね。古典だと、だいたい既訳があるわけで、その既訳があるにもかかわらずやろうと思うのは、もちろん作品がいいこと、プラス既訳があまりよくないこと(笑)が条件ですよね。例えば『トリストラム・シャンディ』とか、あとは『ガリヴァー旅行記』とか、すごくやりたいなあと思うけど、まあ既訳もいいのでね、ガリヴァーなんか、複数良い訳あったりするから、そうするとやってもしょうがないと思う。でも、今まではね、英文科の教師で、アメリカ文学専門ということだったけど、今は現代文芸論にいるし、「アメリカアメリカ」と言わなくてもいいので、翻訳も別にアメリカにこだわらないですね。
A 挙げられた二つの例から見ると、そういう、何と言うか、半ば冗談めいた文体が多分いちばん先生には合っていると思えますね。
柴田 そうですね、だから『ロビンソン・クルーソー』とか絶対無理でしょうね。そうね、半ば冗談めいているというのは、かなり多くの作品はそう言えそうですね、僕の場合。
A ちなみに、翻訳ではなく、フィクションのご執筆をお考えになったことは?
柴田 いや、それはないですね。副産物として、ちょっと妄想的になったエッセイを一応フィクションと銘打って発表したこともありますけど、それは本当に副産物であって、本物の書き手みたいに「書かずにいられない」みたいな、何と言うか、衝動は残念ながらないので、翻訳をやってるほうが世のためになるだろう、と思います。
A 先生は長年、大学で翻訳の授業を行なっていらっしゃいます。その形を簡単に説明いたしますと、クラスの参加者みんな課題を翻訳し、そこで取り上げられた訳に即して叩き合いをするというものですね。このプロセスにおいて、学生にどのようなことをご期待、お望みでいらっしゃるのでしょうか。
柴田 翻訳の授業については、簡単に言うと、原文を読んだ時の快感が伝わるような文章を書く、そういう訳文を作るということを考えるようになって欲しいですね。逆に小説を読む授業だと、単に分析するとか意味を理解するっていうことじゃなくて、それを読んで気持ちいいと思えるようになる力を身につけてほしい。読む授業でも、訳す授業でも、やっぱり快楽、pleasureがキーワードですね。ただ、いつも快楽だけを考えていても駄目で、読者により大きな快楽をもたらすためには、やっぱり正確な文章のほうがいい。だけど、正確でも味気ない訳文というのもあるからね。
A そうですね。ほかのインタビューを拝見しますと、翻訳の「楽しさ」や「ゲーム性」それから今まさに仰った「快楽」についてお話になっていらっしゃいますけれども、翻訳という作業を通して得られるものがあるかどうか、その辺りについてのお考えは?
柴田 まあ、要するに丁寧に読むということだから、丁寧に読めば同じものが得られると思いますけど......僕がただ本を読むのと僕が翻訳するのを比べれば、やっぱり翻訳したほうがその本についてより深くわかるようになる。だけど、もっと頭のいい人だったら、ただ読むだけでも、僕が翻訳するよりはもっと深くわかったりするわけだから、個人差の問題ですね(笑)。この夏に『トム・ソーヤーの冒険』を訳したわけだけど、訳すとその人が癖のように使う言葉っていうのはすごくわかる。コンラッドの『ロード・ジム』を訳した時は、sombreって言葉がすごく多いなあと思った。ハックルベリー・フィンは当然そうだと誰もが思うだろうけど、トム・ソーヤーもね、melancholyとか、darkとか、そういう暗い言葉が多いですね。その暗い言葉を素直に使えなくて、すごくパロディー的に使ったりするのが、『トム・ソーヤーの冒険』という本の、何と言うか、分裂症的な所っていうか。簡単に言うと、『トム・ソーヤーの冒険』という本は、『ハックルベリー・フィンの冒険』という本になりたがっているわけですね。それなれずに、「今ある本」とその「まだない本」の間を行き来しているみたいな、そういう奇妙な緊張関係がある。そういうことはやっぱり、一つひとつの言葉を考えて訳していくなかでこそ、見えやすいかもしれないですね。
A 明治初期の翻訳パラダイムとはだいぶ異なってきたようですね。
柴田 いや、明治時代に実際どう訳されたか、実はそんなに知らないからさ(笑)、明治初期との対比は全然考えないですけどね。戦後のことで言えば、翻訳のやたら硬くて、小学生なのに何でこんな難しい言い方するのかっていうのはさ、その時に「西洋文明のほうが偉い」と思ってたからだと思うんですよね。偉い人たちの話だから、子供でもすごく難しいことしゃべっていいんだっていうのは、そういう前提があった。それは、やっぱり間違いだと思うので、そういう翻訳とは違うものにしたい気持ちははっきりありますね。
A 先生は小説から「モンキービジネス」や「PAPER SKY」の連載に至るまで、様々な形で翻訳に取り組んでいらっしゃいますが、現在日本の読者にとって、「翻訳文学」というカテゴリはどういう存在でしょうか。どのように意識・消費されていると思われますか。
柴田 今の話の続きで言うと、昔は確かにその自分たちより進んだ文明を学ぶっていう、文化を学ぶっていう姿勢はあったと思うんですよね。それはもうないと思う。そうするとじゃあ、日本文学を読むと何が違うのかということになりますよね。基本的にあまり違わないんじゃないかと僕は思いますね。例えば、アメリカの本屋に行けば、翻訳文学が自国の文学と一緒に並んでますよね。「外国文学」の棚ってないよね。同様に日本の読者もそんなに分けて、「自分は日本文学しか読まない」とか、「外国文学しか読まない」とか、そういう極端な人はいない。だいたいみんなどっちも読みますね。もちろん「外国文学好き」という人はいると思いますけど、まあそれは僕はラーメンが好きで僕はカレーライスが好きぐらいの違いですよね(笑)。今はいいんじゃないのかなあ。現代文芸論みたいな研究室が成り立つということからもわかるように、そういう力関係とかいうよりも同時性っていうのが大きいような気がしますね。「海外文学を読めば、自分たちと違う他者の視点が学べる」とか、あまりそういうふうに、効用として考えたくはないですね。
A ある種の帰化、domesticisationということですか。
柴田 いや、domesticiseするかforeigniseするかっていうのは、翻訳する上でのある種の操作の問題ですけど、そうしなくても、何て言うか、例えばアメリカ文化と日本文化だったら、はじめからもう十分似ていると思います。だから無理にdomesticiseする必要はない。
A 各国のポストコロニアル文学の発展のような現象によって、世界文学というコーパスが急速に膨らみつつあると思います。その膨大な作品群と読者との間に立っている翻訳者には、果たすべき役割があるでしょうか。
柴田 「世界文学」という概念が広がったから、何か新しい使命が生まれたとか、そういうふうには思わないですね。そういうコンテクストに自分の役割が縛られるとは全然思ってなくて、単純に僕の翻訳を読みたい人、あるいは読もうかなあと思う人に、どう声がよく届くかっていうことしか考えないなあ......やっぱりそこはね、例えば沼野(充義)さんは、ロシア文学をやってるじゃない? ロシア文学の研究者って結構いるんだけど、でもロシア文学をやってると何となく「ロシアの文化全体を伝えなきゃ」という使命感があるみたいなんですよね。一方で、アメリカだと、やっている人間も多いし、対象もすごく多様だから、自分が全体を伝えようという気はあまりないわけですね。自分が好きなものを伝えようという方向に働く。僕は特にそういう気持ちが強いですね。そういう気持ちは、「アメリカ文学」という枠・コンテクストから「世界文学」というコンテクストに広がった今も、あまり変わらないですね。つまり、みんなが自分の好きなものをやって、それで世界文学が予定調和的に出来ればいいなあっていうふうに思う。予定調和的に本当に出来るのかって言うと、話はまた別で、やっぱりそれは結局、商品として成り立つものかどうかということが問題になってくる。例えば現代ウクライナ文学はどうやって出版できるかとか、そういう問題はあるからね。だはら「みんなが好きなものやれば、それで世界が万遍なく伝わるはずだ」っていう楽観は全然できないですけど、だからと言って、こういうマイナーな国をやろうとか、そういうふうに考えて自分の好みを犠牲にする気もない。強いて言えば、二冊訳したい本があってどっち訳すかって決める時に、なるべく知られていない作家をやるということぐらいはまあ、ありますけどね。同じアメリカならアメリカの中でも、ね。
A もっと作品を国際舞台へ持ち出して発表したいということでしょうか。
柴田 うん、例えばポール・オースターだったら、僕が幸運にもやってるけど、いずれ誰かがやったでしょう。レベッカ・ブラウンとかバリー・ユアグローとかは、僕がやらなかったら誰もやらなかったかもしれない。そういう作家を選んだほうが、やっぱり意義があるとはちょっと思いますけど、そんなに大きなことじゃないね。
A 柴田先生のお言葉をお借りすれば、翻訳って作家と読者へのサービス業ですね。
柴田 そうですね。ただ、かなり特殊なサービス業、自分に都合のいいサービス業だと思います。というのは、自分が気持ちよくないと結局サービスにならない仕事だっていうことですね。僕は嫌々やってもお客さんは喜んでくれる、みたいなことにならないですよね。僕はこんな作品つまんないなあと思って......あまりそういうふうにやったことないわけで実はよくわからないけどさ、やっぱり結局こっちがいいなあって思ったものは、読者もいいなあと思ってくれる確率が高いと思うんですよね。
柴田元幸 えーっと、手探りですね。どんな小説でもそうですけれども、最初訳し始める時に、この小説はこういうトーンかなあっていう、もちろん、漠然としたアイデアはありますけど、その時点では正しく掴めてるっていうことはまずなくて、やっているうちに段々、この小説は、この文章は、こういうふうに訳されたがっているんだなあって、見えてくるんですね。だから最後まで訳して、最初に戻ると、もう最初の部分はほとんど書き直しになりますね。『メイスン&ディクスン』の場合は、原文が18世紀の擬古文で書いてあるから、トーンはどうするかっていうのは、もうちょっと意図的に、ほかよりも意識的にそういうことは考えましたね。最初手探りでやっているうちから、まずは字面の異様さというか普通じゃなさを再現したかった。原文を読むと、とにかく大文字がやたら多くて、名詞はほとんど大文字ではじまるっていう......ぱっと見に異様ですよね、この感じはどうやって出すのかなあ、ということを考えた。それで結局、送り仮名を極端に少なく、普通だったら「決まる」の「ま」は入れるわけだけど、それを入れないとか、それでまあ、普通より漢字を多くするということにしました。ただ、単にそれをやると読みにくくなるので、それでどうしたらいいかなあということを考えて、ある意味で一石二鳥なんですけれども、ルビを多くすることを考えた。明治の、たとえば新聞って総ルビだったんですよね。まだリテラシーが低いからさ、漢字に全部ルビをふったわけです。今も子供の本なんかはそうだけど、大人の文章でルビが多くて漢字も多いというのは、古めかしい感じにはなって、かつ、読みやすくなるっていうか、難しい漢字も使うことができるっていうことで......しかしこんな話を英語でやるのは大変だよね(笑)。まあいいや。とにかく送り仮名を減らし、漢字を多用しルビを多くするということ。確かに18世紀の英語なんだけれども、やっぱり、日本の18世紀をそこに引き込むのは無理だし、意味もない。だけど、何か新しいものが発見されている、つまりメイスンとディクスンがアメリカという、まあヨーロッパ人にとってまだまだ未知の地に行って、新しい世界を発見するっていう、その、発見の感じが、テキストの字面に表れていると思うんですよね。そのことを再現するためには、やっぱり感じとしては明治に戻るのがいいだろうと思った。明治時代にそれこそloveとかさnatureとか、そういう言葉さえどう訳していいか、よくわからなかった時代に、一つひとつ訳語を作っていたわけですよね。そういうプロセスを再現したかった。そこで避けたかったのは、カタカナ語を使うこと。だから一応カタカナの名詞はひとつもないと思うんですね。全部漢字をあてて、それにカタカナのルビをあてる。そうやって、メイスンとディクスンがアメリカを発見していくっていうことを、原書において読者が追体験するとすれば、翻訳では、西洋的なものを明治の読者が発見していくプロセスを、今の平成の読者が追体験するという、まあ、何か口で言うとややこしいんですけど、そういうことをやろうとしたんです。
A ポール・オースターをはじめとして、ダイベック、ユアグロー、ミルハウザー、エリクソン、ゴーリー、パワーズなど本当に幅広い作品を翻訳、言い換えれば吸収・再現なさったことで、ある種の腹話術を得られたのではないかと感じています。その中で、先生にとってとりわけ成り切りやすい、耳を澄ませば聞き分けやすい声はありますか。
柴田 腹話術という言い方はしっくりきますね。とにかく(翻訳というのは)自分を消す作業なので......要するに原書があって、僕を通って訳文が出て来るわけだけど、通る時にあまり変わらないほうがいい。そこで余計なものがなるべく入らないことですね。後半の質問は、まあやっぱりポール・オースターですね。書かれている世界として、自分が訳すのがいいのかもしれないと思えるのはスチュアート・ダイベックで、それは彼が主に描くシカゴの下町と、僕が育った京浜工業地帯とがすごく似ているから。だからこの世界、この埃っぽい感じとかわかるということでね。それからミルハウザーの、いちいち説明しないと気が済まない几帳面さっていうのも割とわかるので、ぼくはずぼらな人間ですけど、ああいうのもすごく共感し......まあ、何冊も訳している作家みんな、それぞれやりやすいと言えますね。それぞれ再現すべき、一番再現したいものは違って、例えばオースターだったらとにかく文章の音楽性ですよね。再現すべきものは違うんだけど、それを再現する喜びはまあみんな同じ、それが要するに腹話術をやるっていうことですね。
A 今までアメリカ文学を中心としてご活躍なさっていらっしゃいましたが、ほかの英語圏の文学を試そうというお気持ちは?
柴田 うん、やっぱり古典をもっとやりたいと思うようになってきましたね。古典だと、だいたい既訳があるわけで、その既訳があるにもかかわらずやろうと思うのは、もちろん作品がいいこと、プラス既訳があまりよくないこと(笑)が条件ですよね。例えば『トリストラム・シャンディ』とか、あとは『ガリヴァー旅行記』とか、すごくやりたいなあと思うけど、まあ既訳もいいのでね、ガリヴァーなんか、複数良い訳あったりするから、そうするとやってもしょうがないと思う。でも、今まではね、英文科の教師で、アメリカ文学専門ということだったけど、今は現代文芸論にいるし、「アメリカアメリカ」と言わなくてもいいので、翻訳も別にアメリカにこだわらないですね。
A 挙げられた二つの例から見ると、そういう、何と言うか、半ば冗談めいた文体が多分いちばん先生には合っていると思えますね。
柴田 そうですね、だから『ロビンソン・クルーソー』とか絶対無理でしょうね。そうね、半ば冗談めいているというのは、かなり多くの作品はそう言えそうですね、僕の場合。
A ちなみに、翻訳ではなく、フィクションのご執筆をお考えになったことは?
柴田 いや、それはないですね。副産物として、ちょっと妄想的になったエッセイを一応フィクションと銘打って発表したこともありますけど、それは本当に副産物であって、本物の書き手みたいに「書かずにいられない」みたいな、何と言うか、衝動は残念ながらないので、翻訳をやってるほうが世のためになるだろう、と思います。
A 先生は長年、大学で翻訳の授業を行なっていらっしゃいます。その形を簡単に説明いたしますと、クラスの参加者みんな課題を翻訳し、そこで取り上げられた訳に即して叩き合いをするというものですね。このプロセスにおいて、学生にどのようなことをご期待、お望みでいらっしゃるのでしょうか。
柴田 翻訳の授業については、簡単に言うと、原文を読んだ時の快感が伝わるような文章を書く、そういう訳文を作るということを考えるようになって欲しいですね。逆に小説を読む授業だと、単に分析するとか意味を理解するっていうことじゃなくて、それを読んで気持ちいいと思えるようになる力を身につけてほしい。読む授業でも、訳す授業でも、やっぱり快楽、pleasureがキーワードですね。ただ、いつも快楽だけを考えていても駄目で、読者により大きな快楽をもたらすためには、やっぱり正確な文章のほうがいい。だけど、正確でも味気ない訳文というのもあるからね。
A そうですね。ほかのインタビューを拝見しますと、翻訳の「楽しさ」や「ゲーム性」それから今まさに仰った「快楽」についてお話になっていらっしゃいますけれども、翻訳という作業を通して得られるものがあるかどうか、その辺りについてのお考えは?
柴田 まあ、要するに丁寧に読むということだから、丁寧に読めば同じものが得られると思いますけど......僕がただ本を読むのと僕が翻訳するのを比べれば、やっぱり翻訳したほうがその本についてより深くわかるようになる。だけど、もっと頭のいい人だったら、ただ読むだけでも、僕が翻訳するよりはもっと深くわかったりするわけだから、個人差の問題ですね(笑)。この夏に『トム・ソーヤーの冒険』を訳したわけだけど、訳すとその人が癖のように使う言葉っていうのはすごくわかる。コンラッドの『ロード・ジム』を訳した時は、sombreって言葉がすごく多いなあと思った。ハックルベリー・フィンは当然そうだと誰もが思うだろうけど、トム・ソーヤーもね、melancholyとか、darkとか、そういう暗い言葉が多いですね。その暗い言葉を素直に使えなくて、すごくパロディー的に使ったりするのが、『トム・ソーヤーの冒険』という本の、何と言うか、分裂症的な所っていうか。簡単に言うと、『トム・ソーヤーの冒険』という本は、『ハックルベリー・フィンの冒険』という本になりたがっているわけですね。それなれずに、「今ある本」とその「まだない本」の間を行き来しているみたいな、そういう奇妙な緊張関係がある。そういうことはやっぱり、一つひとつの言葉を考えて訳していくなかでこそ、見えやすいかもしれないですね。
A 明治初期の翻訳パラダイムとはだいぶ異なってきたようですね。
柴田 いや、明治時代に実際どう訳されたか、実はそんなに知らないからさ(笑)、明治初期との対比は全然考えないですけどね。戦後のことで言えば、翻訳のやたら硬くて、小学生なのに何でこんな難しい言い方するのかっていうのはさ、その時に「西洋文明のほうが偉い」と思ってたからだと思うんですよね。偉い人たちの話だから、子供でもすごく難しいことしゃべっていいんだっていうのは、そういう前提があった。それは、やっぱり間違いだと思うので、そういう翻訳とは違うものにしたい気持ちははっきりありますね。
A 先生は小説から「モンキービジネス」や「PAPER SKY」の連載に至るまで、様々な形で翻訳に取り組んでいらっしゃいますが、現在日本の読者にとって、「翻訳文学」というカテゴリはどういう存在でしょうか。どのように意識・消費されていると思われますか。
柴田 今の話の続きで言うと、昔は確かにその自分たちより進んだ文明を学ぶっていう、文化を学ぶっていう姿勢はあったと思うんですよね。それはもうないと思う。そうするとじゃあ、日本文学を読むと何が違うのかということになりますよね。基本的にあまり違わないんじゃないかと僕は思いますね。例えば、アメリカの本屋に行けば、翻訳文学が自国の文学と一緒に並んでますよね。「外国文学」の棚ってないよね。同様に日本の読者もそんなに分けて、「自分は日本文学しか読まない」とか、「外国文学しか読まない」とか、そういう極端な人はいない。だいたいみんなどっちも読みますね。もちろん「外国文学好き」という人はいると思いますけど、まあそれは僕はラーメンが好きで僕はカレーライスが好きぐらいの違いですよね(笑)。今はいいんじゃないのかなあ。現代文芸論みたいな研究室が成り立つということからもわかるように、そういう力関係とかいうよりも同時性っていうのが大きいような気がしますね。「海外文学を読めば、自分たちと違う他者の視点が学べる」とか、あまりそういうふうに、効用として考えたくはないですね。
A ある種の帰化、domesticisationということですか。
柴田 いや、domesticiseするかforeigniseするかっていうのは、翻訳する上でのある種の操作の問題ですけど、そうしなくても、何て言うか、例えばアメリカ文化と日本文化だったら、はじめからもう十分似ていると思います。だから無理にdomesticiseする必要はない。
A 各国のポストコロニアル文学の発展のような現象によって、世界文学というコーパスが急速に膨らみつつあると思います。その膨大な作品群と読者との間に立っている翻訳者には、果たすべき役割があるでしょうか。
柴田 「世界文学」という概念が広がったから、何か新しい使命が生まれたとか、そういうふうには思わないですね。そういうコンテクストに自分の役割が縛られるとは全然思ってなくて、単純に僕の翻訳を読みたい人、あるいは読もうかなあと思う人に、どう声がよく届くかっていうことしか考えないなあ......やっぱりそこはね、例えば沼野(充義)さんは、ロシア文学をやってるじゃない? ロシア文学の研究者って結構いるんだけど、でもロシア文学をやってると何となく「ロシアの文化全体を伝えなきゃ」という使命感があるみたいなんですよね。一方で、アメリカだと、やっている人間も多いし、対象もすごく多様だから、自分が全体を伝えようという気はあまりないわけですね。自分が好きなものを伝えようという方向に働く。僕は特にそういう気持ちが強いですね。そういう気持ちは、「アメリカ文学」という枠・コンテクストから「世界文学」というコンテクストに広がった今も、あまり変わらないですね。つまり、みんなが自分の好きなものをやって、それで世界文学が予定調和的に出来ればいいなあっていうふうに思う。予定調和的に本当に出来るのかって言うと、話はまた別で、やっぱりそれは結局、商品として成り立つものかどうかということが問題になってくる。例えば現代ウクライナ文学はどうやって出版できるかとか、そういう問題はあるからね。だはら「みんなが好きなものやれば、それで世界が万遍なく伝わるはずだ」っていう楽観は全然できないですけど、だからと言って、こういうマイナーな国をやろうとか、そういうふうに考えて自分の好みを犠牲にする気もない。強いて言えば、二冊訳したい本があってどっち訳すかって決める時に、なるべく知られていない作家をやるということぐらいはまあ、ありますけどね。同じアメリカならアメリカの中でも、ね。
A もっと作品を国際舞台へ持ち出して発表したいということでしょうか。
柴田 うん、例えばポール・オースターだったら、僕が幸運にもやってるけど、いずれ誰かがやったでしょう。レベッカ・ブラウンとかバリー・ユアグローとかは、僕がやらなかったら誰もやらなかったかもしれない。そういう作家を選んだほうが、やっぱり意義があるとはちょっと思いますけど、そんなに大きなことじゃないね。
A 柴田先生のお言葉をお借りすれば、翻訳って作家と読者へのサービス業ですね。
柴田 そうですね。ただ、かなり特殊なサービス業、自分に都合のいいサービス業だと思います。というのは、自分が気持ちよくないと結局サービスにならない仕事だっていうことですね。僕は嫌々やってもお客さんは喜んでくれる、みたいなことにならないですよね。僕はこんな作品つまんないなあと思って......あまりそういうふうにやったことないわけで実はよくわからないけどさ、やっぱり結局こっちがいいなあって思ったものは、読者もいいなあと思ってくれる確率が高いと思うんですよね。