ヨッパ谷への降下
筒井 康隆
共に生活しはじめた朱女という娘は奇妙な女性で朝飯を食べている時きらめくような眼で碗の中をのぞきこみ「ご飯の中に社会が見えます」だの「お味噌汁の中に国家があります」だのと口走る。なかば冗談でなかば本気なのだが当然そういう異様な感受性も含め朱女が好きになったから一緒になったのだ。何代も続いた古い家なので両親が死んだ今たったひとりではとても維持できぬほど大きな家でもある。だから朱女をつれてきたのだった。
家にはこの村の他の家と同じくヨッパグモの巣もちゃんとある。わが家の巣は居間として使っている八畳間の北東の隅にあるのだが巣のある場所は家によって異なっている。廊下の突きあたりに巣をつくられてしまった家もあるそうだ。その突きあたりには本来便所があったのだがヨッパグモによって片開きの戸の前に巣が張りめぐらされたため開かずの便所になってしまったという話である。
ヨッパグモの巣はたいてい家の中の床から天井まで隙間なく張られてしまう。乳白色をした半透明の細い糸でこまかく張りめぐらされるため一見絹のようにきらきら光って繭の表面のように艶やかだが実は巣の中ほどまで透けて見えているのだ。巣の厚みはだいたい三尺から四尺あるため奥の壁まで透けて見えるということはない。強い陽光があたれば奥まで透けて見えるのかもしれないがヨッパグモは太陽の光が嫌いでありたいていは家のいちばん暗い片隅の部分に巣を作っている。表面がきらきら光るのは電燈の光のせいであり電燈が二十燭光であっても百燭光であってもそれぞれそれなりに美しく光るのだ。その美しさは絹の反物の如く平面的な輝きによるものではないため例えようもなく奥深い美しさである。
ヨッパグモというのは体長一粍にも満たぬ乳白色をした不透明の生物で何千匹もがひとつの巣の中に棲んでいるらしい。共同生活をする上雑食性なのでヨッパグモと呼ばれてはいるものの厳密には蜘蛛類ではないのではないかとも思えるのだ。巣に向かって眼を凝らすと彼らの姿が乳白色の点として巣のあちこちに点点と見え彼らはほとんど動かない。しかしたとえばこの巣の表面に向けて食べものの残りなどを投げてやると粘り気の多い糸にひっかかった食べものめがけて周辺にいる数百匹がその一点へと殺到する。見ている者にとってそれは厚みのあるシルク・スクリーン上の動く濃淡として美しく眼に映じるのだ。収縮する星雲またはフィルムを逆に回した波紋のようでもある。
どこの家でもヨッパグモの巣を大切にする。一軒の家にひとつだけ作らせておけば他の場所にそれ以上作ることはないので住人の生活にさほど迷惑は及ばない。ただ時おり小さな子供が巣にひっかかってしまい脱け出せなくなるということが起る。たいていは親が見つけ出してすぐ救出するから大事に至ったことはまだ一度もないようだ。もしひと晩とか丸一日とか抛っておかれたらおそらく全身を糸で隙間なく巻かれてしまい窒息するのだろう。まだ両親が生きていた子供の頃のことだが一度だけ巣にめりこんで動けなくなったことがある。近所の子供たちをつれてきて家の中で走りまわっているうち巣の存在を忘れたのだった。とびこんでしまったので足が床から離れていたし全身にからみついた糸は恐るべく強靭だった。身動きすらできぬまま顔や手足の露出した部分を無数のヨッパグモに噛まれ続けたあの感覚は今になっても忘れられない実に奇妙なものだった。二歳の夏であったと記憶している。
他の子供たちが騒ぎ立てたためすぐ母親に助け出されたからよかったものの朱女の場合は半日そのままだったと言う。両親が畠に出ていたのだ。その体験が彼女を風変わりな娘にしたのかもしれない。眼の前にはただ乳白色の靄があるだけで全身に力が入らずヨッパグモに齧られて異様な幻覚に襲われ続けるあの経験が半日も続いたのではなるほど味噌汁の中に国家を見出す異常感覚の持ち主となっても不思議はない。
村人たちがそれぞれ自分の家にあるヨッパグモの巣を大切にするのはそれがこの村にもう何代も居住しているあかしとなるからである。建てたばかりの家にヨッパグモが巣をつくることはない。そして彼らは家の片隅の天井から床までの壁ぎわに奥行き三尺から四尺の巣をつくってしまい何千匹かがそこへ居ついてしまうともうそれ以上巣を拡げることもそれ以上繁殖することもない。飽和状態になるからであろう。
とはいうもののヨッパグモたちは小さなからだに似合わずなかなかの大食なのだ。晩飯の残りのじゃがいもの煮つけのそれも相当に大きな塊りを投げてやると引っかかったところへさして四方八方からかけつけたヨッパグモによってそれはたちまち乳白色に輝く塊りとなるが翌朝には跡形もない。巣の下方の床すれすれの部分には糸にくるまれて鼠の骨らしいものが常にたくさん引っかかっている。もし誰も助け出す者がいなければ幼児だって何日めかには骨にされてしまうのかもしれない。
その晩も八畳間で朱女と晩飯を食べていた。
「お豆腐の中に社会が見えます」いつものように朱女は冷奴に眼を凝らした。
「きっとまっ白けの社会だろうね」軽く笑って相槌をうつ。それからふと思いついて彼女に訊ねてみた。「あのヨッパグモの巣の中には何が見えるの」
彼女は巣に眼を向けて答える。「いつもと同じです。あの中には政治が見えます」
「ははあ。政治をやっているのか」
「いえ。政治をやっているのが見えるのではなく政治が見えるのです」
社会とか国家とか政治とかいった形のないものが見えるという朱女の感覚はどのようなものなのだろう。
「あのヨッパグモはこの村にだけしかいない生物らしいけど何故だろうね」
朱女は凛とした眼をこちらに向けた。「地磁気の関係じゃありませんか。この辺の磁性は強いようです」
「そんなことも感じるのかい」
「感じます」
「この辺は火山帯なのだろうか」
「あるいは鉄鉱脈があるかも」
「ではこのあたりだとヨッパ谷の磁性がいちばん強いということになるね」
ヨッパ谷というのはこの村からサイカチ山だの隣り村だのへ行く境にあってそれは底知れぬほど深い陽の射さぬ谷であり底には僧都川が流れている。「底知れぬほど」であるのは吊り橋から谷底が見えないからであってそれはヨッパグモが巣をつくっているからだ。全長十二間にも及ぶながい吊り橋の中ほどから見おろせば下方十二尋のあたりにまで半透明乳白色の巣が盛りあがっている。そのあたりから谷底の僧都川までどうやら何十尋にも及ぶ厚みで巣は張りめぐらされているらしい。そのヨッパ谷こそがヨッパグモの本拠であろうとされていてそこに棲むヨッパグモの数となるともう何万匹いることやら何十万匹いることやら想像がつきかねるほどなのだ。村人たちは僧都川の上流へ魚を獲りに出かけることがよくあるのだが上流にあるヨッパ谷の入口の川幅が狭くなったあたりには金網が張られているから人が流されたりした場合でもヨッパグモの巣の下まで流されていくということはない。ヨッパ谷の下流へ行って崖下から見あげるとヨッパグモの巣は水面すれすれにまで作られている。だから村人たちはヨッパグモが水面から跳ねて躍りあがり巣にかかった魚を食うこともあるのではないかと想像したりもしている。
シロという名の桐吾の犬が吊り橋から足を踏みはずしてヨッパ谷へ落ちたことがある。猟師をしていると桐吾の話によれば彼の飼っているただ一匹の猟犬だったシロは悲しげに吠えながらたちまちその姿を綿のように柔らかく盛りあがった乳白色の巣の中へと消してしまったものの吠え声だけはゆるやかに遠ざかりながらもずいぶんながい間聞こえ続けていたという。
「朱女も毎日吊り橋を渡るのだ。気をつけるように言っといてくれ」
その話をした時桐吾は真剣な眼でそう言った。朱女は毎日サイカチ山へ漢方薬の原料にする皁莢をとりに行くのだ。吊り橋はずいぶん古くなり橋板の横木の中には腐りかけているものもあるという話だった。
桐吾も朱女も近くの町にある高校での同級生だった。桐吾も朱女が好きだったようだがこの村では恋愛結婚がどちらかといえば異常なことと思われていたため早くからあきらめていたようだ。われわれの結婚はしばらく村での話題となった。「恋愛」ということばさえ通常の会話で使われることがなかったため村人たちは「あのふたりはレンアイをした」というただそれだけのことを話題にし続けたのだ。「恋愛」のアクセントが平板であることも知らず彼らは「レンアイ」とレにアクセントを置いていたようだ。
「なんとなくお前たちが謀叛をくわだてたどでも言いたげな話しかたをしているよ」
桐吾が笑いながらそう教えてくれたのだった。そのころからもう五年経っている。
「たいへんだ。朱女がヨッパ谷へ落ちた」
ビニールハウスにいると桐吾が駆けてきた。顔は蒼白だった。そして泣いている。ただ朱女の転落を目撃したというだけではなさそうだったが詳細はあとで聞ける。朱女に話したことこそ一度もなかったがこのようなことになる不安はもうだいぶ以前からあった。そのためにザイルを買っておいたのだ。家へ駆け戻りながら桐吾に叫ぶ。
「晃人を呼んできてくれ」
桐吾は無言で駆け去る。ザイルと鎌を持ち自転車で吊り橋に駆けつけた時すでに桐吾は同世代の者三人をつれてたもとで待っていた。百メートルもあるザイルは重くて運ぶのに時間がかかったのだった。五人とザイルの重量に吊り橋が耐えられるかどうか心許なかったのでザイルをたぐり出させるために橋のたもとに二人を残しザイルの先端を持って桐吾と晃人を従え吊り橋の中ほどへ出た。橋板の横木が数本折れて垂れ下がっていた。眼下の白い巣の盛りあがりの中央に陰翳のような窪みがあった。少し風が強かった。胸にザイルを巻きつける。手伝いながら桐吾が告白した。ここで朱女とすれ違おうとした桐吾が彼女の胸に手をのばしたのだった。以前の桐吾なら朱女に対してとてもそのようなことはできなかったであろうがお互い結婚して以来多少図太くもなっているだろうから冗談として許してもらえる筈という計算があったらしい。しかし朱女はそのような行為がいちばん嫌いであり過敏に反応した。足もとに力が入り腐っていた横木の一本が折れると同時に他の数本も折れた。
また風が吹いた。足を下にして宙に浮遊するとからだが揺れ吊り橋全体も揺れた。吊り橋の上では桐吾と晃人がそれぞれの肩でザイルを支えゆっくりと繰り出している。場所こそ違え昔三人でこれに似た遊びをやった記憶が浮遊感覚野の中に蘇える。朱女は真下に落ちたらしく橋板の折れていた場所から降下すれば風でからだや橋が大きく揺れぬ限りまっすぐ巣の窪みに到達する。そのままそのままなどと互いに呼びかわし降下し続ける。朱女の名を呼んでみる。返事はない。
窪みに達した。
「行くぞ」
「おお」頭上はるかの二人が応じる。
ザイルが巻きついている位置を乳の下まで押しやり頭を下にする。鎌で巣の糸を切り裂いた。数十匹のヨッパグモが白い粉の如く宙に舞った。粘り気のある糸が鎌にからみつく。鎌の刃から糸をとってはまた切り裂く。ヨッパグモは朱女が巣に穿った穴をすぐ復旧したようだ。降下の速度は宙を降下していた時と変わらない。ゴーグルを持ってくればよかったと思うがあわてていたためそこまで考えが及ばなかったのだ。濃密な雲の中ヨッパグモが眼にとびこまぬよう切り裂く時には眼を閉じねばならない。切り裂くたび掛け声のように朱女の名を呼ぶ。返事はない。耳の穴がむず痒い。
むず痒さがからだのあちこちに拡がりはじめた。ヨッパグモに噛まれているようだ。下方に眼を凝らすがただ乳白色があるばかりだ。頭上を見るとまだ小さく青空があった。むず痒い。ヨッパグモたちが齧っているのだな。朱女が糸にくるまっているのではないか。彼女のからだを切り裂いたりしてはならない。さらに眼を凝らすが眼下の乳白色に濃淡は見られない。朱女はどこまで落ちたのだろう。
懐かしい感覚が戻ってきた。忘れていた感覚だ。時おりちらりと芳香だけを嗅ぎとることができてすぐ遠ざかっていったあの感覚だ。まるで心の奥の混沌に舞い戻っていくようだ。子供の頃の朱女がいる。乳白色の朝霧につつまれたこの朝はあの高校の木造の校舎の中だろうか。朱女は一方で大人になり現在の妻でもある女性として陽光の中の教室の隅にいる。
「君はヨッパグモのお姫さまだったのかい」
朱女は何か作っているようだ。
「お菓子を包んでいます。これから電報を打たなければなりません」
なるほどなるほどと思う。「国家を編集するんだね」
「あなたは逃げ出さないでください」
糸を紡ぐようにもうひとつの論理による筋道立った会話が次つぎと繰り出されていく。これは非常に重要な話なのだと理解でき納得できるのだ。
「合掌してください」
映画館の前だ。合掌せよというのが映画を見ようということなのだとすぐに翻訳できる。ああ。この国のことばがわかりはじめたぞ。しかし映画館の中でやっているのは紙芝居なのだ。
「ことばはみんな商号だったようだね」
「そんな人はみんなお寺の裏に集ってもらいました」
朱女が八畳の間にいる。巣を背にしていてまるで彫刻のようだ。今日は文化の日だったかな。「何もかもを失ったように思っていたんだけど雨が降ったりした時は君が本当に好きなんだよ」
朱女は華やかな笑顔でのけぞる。「もうそんな時代になっていたんですか」
「知らなかったの。桐吾や晃人も一緒なんだぜ」
みんな雑誌の挿絵になりはじめていた。散髪屋の横の路地で誰かが来るのを待っているのだ。
「いくら耕やしたって電力が供給できないでしょう」
「大丈夫。もう君のことばがわかるんだから」だからこそ中小企業が成り立っているんじゃないかと思う。ありあまる存続の糸をたぐり朱女は財貨を貯え続けているのだ。
「でもそれは世間体に過ぎませんから」
「ぼくなら君の統治する国家に喜んで」いや。すでに彼女の支配下にあるではないか。
「崩壊させてもらうよ」
「いいえ。これは説話の世界じゃないのですよ。何か聞こえるでしょう」
「ありがとう。この辺に小屋掛けをするから」農協の隣りがいいだろう。
「ほら。甘い感触でしょう」
奇妙なのは村人たちの方であったのだ。「和紙を張りめぐらせて独立すればよかったんだ」
「よく見えるわ」
朱女の宣言ですべての人間が悟るだろう。陵辱されたのは実は自分たちの方であったことを。定価などないのだ。「そうだ。村以外のすべてを逆に封じこめてやろう」
「ええ。名刺にそう印刷しておきましょうね」
朱女は白無垢を着て手に白磁の器を持っている。その上下から鍾乳洞のような凹凸が垂れ下がり突き出ている。
「自由だったんだ」
「そうよ。その鎖をはずしておしまいなさい」
なぜかいちばん声の弱い意識の表面の方からの抑止が逆に深層へ向かって働いている。やめろ。やめろ。白夜の中に踏み迷うぞ。しかし胸を締めつけている鎖から抜け出さずにはいられない。
突然の落下。気がつけば水の中だ。底が浅い。幻覚の中で自らザイルを振りほどいたようだ。水は流れている。僧都川だな。巣を突き抜けてヨッパ谷の谷底へ落ちたに違いない。あたりはうす暗いが見あげるとヨッパグモの巣によって天井が乳白色のドームになっている。朱女の声が聞こえた。岸を見ると白い岩場の上で白い犬が吠えている。まだ幻覚の中にいるのだろうか。円天井からの極めてわずかな光線によってこの世ならぬ白銀色の奇怪な光景が周囲にある。
「あなた。わたしはここです」
岸で朱女が呼んでいた。幅二間ほどの川の中央で立ちあがり腰まで水に浸ったまま彼女の方へ歩き出す。「無事だったね」
「あなたがきっと来てくれると思っていました。だからここにいたんです」
岸にたどりつくとシロが走ってきて足にまといついた。「シロだ。こいつ生きていたんだ」
「お魚を食べて生きていたんです。ほら。この辺お魚がいっぱい」
淵に岩魚がうようよしていた。上から落ちてくるヨッパグモを食べるためだろう。ヨッパグモが魚を食べるという話とはまるで逆だったのだ。岸辺は土の上も岩の上もヨッパグモの死骸でまっ白である。「天国のイメージだなあ」
「ほんとうに」
朱女と抱きあう。「巣の中を通り抜けたために君のことや君の言うことが理解できるようになったよ」
「噛まれたのですね。わたしはまっすぐここまで落ちてきました」
強靭なヨッパグモの糸のお蔭で川底へ叩きつけられずにすんだのだ。笑いあいまた抱きあう。「しかしすごい数の魚だなあ」
「ええ。秘密の漁場ですね。また来ましょうね」
「うん。また来よう」
もう少しそこにいてあたりの景色などを楽しみたかったが吊り橋の上では桐吾や晃人が心配している筈だった。
朱女が流れを指した。「あの巣の下さえ潜れば下流に出ます」
朱女は川の中ほどまで歩いて行って全身を水に浸し流れに身をまかせた。シロを抱いて彼女に続くと黄色い着物の朱女が黄金の巨大な錦鯉のように見えた。川面すれすれにまで巣が垂れさがっているすぐ手前で朱女が水に潜った。頭を鷲づかみにするようにシロの両耳を片手で塞いでやり彼女に続いてほんの少し潜る。水面に浮かぶなり川は何段にもなったゆるやかな滝となり二人と一匹はひとかたまりになって水蘚の生えた岩の棚をゆっくりところがり落ちて行く。
(「新潮」昭和六十三年一月号)
家にはこの村の他の家と同じくヨッパグモの巣もちゃんとある。わが家の巣は居間として使っている八畳間の北東の隅にあるのだが巣のある場所は家によって異なっている。廊下の突きあたりに巣をつくられてしまった家もあるそうだ。その突きあたりには本来便所があったのだがヨッパグモによって片開きの戸の前に巣が張りめぐらされたため開かずの便所になってしまったという話である。
ヨッパグモの巣はたいてい家の中の床から天井まで隙間なく張られてしまう。乳白色をした半透明の細い糸でこまかく張りめぐらされるため一見絹のようにきらきら光って繭の表面のように艶やかだが実は巣の中ほどまで透けて見えているのだ。巣の厚みはだいたい三尺から四尺あるため奥の壁まで透けて見えるということはない。強い陽光があたれば奥まで透けて見えるのかもしれないがヨッパグモは太陽の光が嫌いでありたいていは家のいちばん暗い片隅の部分に巣を作っている。表面がきらきら光るのは電燈の光のせいであり電燈が二十燭光であっても百燭光であってもそれぞれそれなりに美しく光るのだ。その美しさは絹の反物の如く平面的な輝きによるものではないため例えようもなく奥深い美しさである。
ヨッパグモというのは体長一粍にも満たぬ乳白色をした不透明の生物で何千匹もがひとつの巣の中に棲んでいるらしい。共同生活をする上雑食性なのでヨッパグモと呼ばれてはいるものの厳密には蜘蛛類ではないのではないかとも思えるのだ。巣に向かって眼を凝らすと彼らの姿が乳白色の点として巣のあちこちに点点と見え彼らはほとんど動かない。しかしたとえばこの巣の表面に向けて食べものの残りなどを投げてやると粘り気の多い糸にひっかかった食べものめがけて周辺にいる数百匹がその一点へと殺到する。見ている者にとってそれは厚みのあるシルク・スクリーン上の動く濃淡として美しく眼に映じるのだ。収縮する星雲またはフィルムを逆に回した波紋のようでもある。
どこの家でもヨッパグモの巣を大切にする。一軒の家にひとつだけ作らせておけば他の場所にそれ以上作ることはないので住人の生活にさほど迷惑は及ばない。ただ時おり小さな子供が巣にひっかかってしまい脱け出せなくなるということが起る。たいていは親が見つけ出してすぐ救出するから大事に至ったことはまだ一度もないようだ。もしひと晩とか丸一日とか抛っておかれたらおそらく全身を糸で隙間なく巻かれてしまい窒息するのだろう。まだ両親が生きていた子供の頃のことだが一度だけ巣にめりこんで動けなくなったことがある。近所の子供たちをつれてきて家の中で走りまわっているうち巣の存在を忘れたのだった。とびこんでしまったので足が床から離れていたし全身にからみついた糸は恐るべく強靭だった。身動きすらできぬまま顔や手足の露出した部分を無数のヨッパグモに噛まれ続けたあの感覚は今になっても忘れられない実に奇妙なものだった。二歳の夏であったと記憶している。
他の子供たちが騒ぎ立てたためすぐ母親に助け出されたからよかったものの朱女の場合は半日そのままだったと言う。両親が畠に出ていたのだ。その体験が彼女を風変わりな娘にしたのかもしれない。眼の前にはただ乳白色の靄があるだけで全身に力が入らずヨッパグモに齧られて異様な幻覚に襲われ続けるあの経験が半日も続いたのではなるほど味噌汁の中に国家を見出す異常感覚の持ち主となっても不思議はない。
村人たちがそれぞれ自分の家にあるヨッパグモの巣を大切にするのはそれがこの村にもう何代も居住しているあかしとなるからである。建てたばかりの家にヨッパグモが巣をつくることはない。そして彼らは家の片隅の天井から床までの壁ぎわに奥行き三尺から四尺の巣をつくってしまい何千匹かがそこへ居ついてしまうともうそれ以上巣を拡げることもそれ以上繁殖することもない。飽和状態になるからであろう。
とはいうもののヨッパグモたちは小さなからだに似合わずなかなかの大食なのだ。晩飯の残りのじゃがいもの煮つけのそれも相当に大きな塊りを投げてやると引っかかったところへさして四方八方からかけつけたヨッパグモによってそれはたちまち乳白色に輝く塊りとなるが翌朝には跡形もない。巣の下方の床すれすれの部分には糸にくるまれて鼠の骨らしいものが常にたくさん引っかかっている。もし誰も助け出す者がいなければ幼児だって何日めかには骨にされてしまうのかもしれない。
その晩も八畳間で朱女と晩飯を食べていた。
「お豆腐の中に社会が見えます」いつものように朱女は冷奴に眼を凝らした。
「きっとまっ白けの社会だろうね」軽く笑って相槌をうつ。それからふと思いついて彼女に訊ねてみた。「あのヨッパグモの巣の中には何が見えるの」
彼女は巣に眼を向けて答える。「いつもと同じです。あの中には政治が見えます」
「ははあ。政治をやっているのか」
「いえ。政治をやっているのが見えるのではなく政治が見えるのです」
社会とか国家とか政治とかいった形のないものが見えるという朱女の感覚はどのようなものなのだろう。
「あのヨッパグモはこの村にだけしかいない生物らしいけど何故だろうね」
朱女は凛とした眼をこちらに向けた。「地磁気の関係じゃありませんか。この辺の磁性は強いようです」
「そんなことも感じるのかい」
「感じます」
「この辺は火山帯なのだろうか」
「あるいは鉄鉱脈があるかも」
「ではこのあたりだとヨッパ谷の磁性がいちばん強いということになるね」
ヨッパ谷というのはこの村からサイカチ山だの隣り村だのへ行く境にあってそれは底知れぬほど深い陽の射さぬ谷であり底には僧都川が流れている。「底知れぬほど」であるのは吊り橋から谷底が見えないからであってそれはヨッパグモが巣をつくっているからだ。全長十二間にも及ぶながい吊り橋の中ほどから見おろせば下方十二尋のあたりにまで半透明乳白色の巣が盛りあがっている。そのあたりから谷底の僧都川までどうやら何十尋にも及ぶ厚みで巣は張りめぐらされているらしい。そのヨッパ谷こそがヨッパグモの本拠であろうとされていてそこに棲むヨッパグモの数となるともう何万匹いることやら何十万匹いることやら想像がつきかねるほどなのだ。村人たちは僧都川の上流へ魚を獲りに出かけることがよくあるのだが上流にあるヨッパ谷の入口の川幅が狭くなったあたりには金網が張られているから人が流されたりした場合でもヨッパグモの巣の下まで流されていくということはない。ヨッパ谷の下流へ行って崖下から見あげるとヨッパグモの巣は水面すれすれにまで作られている。だから村人たちはヨッパグモが水面から跳ねて躍りあがり巣にかかった魚を食うこともあるのではないかと想像したりもしている。
シロという名の桐吾の犬が吊り橋から足を踏みはずしてヨッパ谷へ落ちたことがある。猟師をしていると桐吾の話によれば彼の飼っているただ一匹の猟犬だったシロは悲しげに吠えながらたちまちその姿を綿のように柔らかく盛りあがった乳白色の巣の中へと消してしまったものの吠え声だけはゆるやかに遠ざかりながらもずいぶんながい間聞こえ続けていたという。
「朱女も毎日吊り橋を渡るのだ。気をつけるように言っといてくれ」
その話をした時桐吾は真剣な眼でそう言った。朱女は毎日サイカチ山へ漢方薬の原料にする皁莢をとりに行くのだ。吊り橋はずいぶん古くなり橋板の横木の中には腐りかけているものもあるという話だった。
桐吾も朱女も近くの町にある高校での同級生だった。桐吾も朱女が好きだったようだがこの村では恋愛結婚がどちらかといえば異常なことと思われていたため早くからあきらめていたようだ。われわれの結婚はしばらく村での話題となった。「恋愛」ということばさえ通常の会話で使われることがなかったため村人たちは「あのふたりはレンアイをした」というただそれだけのことを話題にし続けたのだ。「恋愛」のアクセントが平板であることも知らず彼らは「レンアイ」とレにアクセントを置いていたようだ。
「なんとなくお前たちが謀叛をくわだてたどでも言いたげな話しかたをしているよ」
桐吾が笑いながらそう教えてくれたのだった。そのころからもう五年経っている。
「たいへんだ。朱女がヨッパ谷へ落ちた」
ビニールハウスにいると桐吾が駆けてきた。顔は蒼白だった。そして泣いている。ただ朱女の転落を目撃したというだけではなさそうだったが詳細はあとで聞ける。朱女に話したことこそ一度もなかったがこのようなことになる不安はもうだいぶ以前からあった。そのためにザイルを買っておいたのだ。家へ駆け戻りながら桐吾に叫ぶ。
「晃人を呼んできてくれ」
桐吾は無言で駆け去る。ザイルと鎌を持ち自転車で吊り橋に駆けつけた時すでに桐吾は同世代の者三人をつれてたもとで待っていた。百メートルもあるザイルは重くて運ぶのに時間がかかったのだった。五人とザイルの重量に吊り橋が耐えられるかどうか心許なかったのでザイルをたぐり出させるために橋のたもとに二人を残しザイルの先端を持って桐吾と晃人を従え吊り橋の中ほどへ出た。橋板の横木が数本折れて垂れ下がっていた。眼下の白い巣の盛りあがりの中央に陰翳のような窪みがあった。少し風が強かった。胸にザイルを巻きつける。手伝いながら桐吾が告白した。ここで朱女とすれ違おうとした桐吾が彼女の胸に手をのばしたのだった。以前の桐吾なら朱女に対してとてもそのようなことはできなかったであろうがお互い結婚して以来多少図太くもなっているだろうから冗談として許してもらえる筈という計算があったらしい。しかし朱女はそのような行為がいちばん嫌いであり過敏に反応した。足もとに力が入り腐っていた横木の一本が折れると同時に他の数本も折れた。
また風が吹いた。足を下にして宙に浮遊するとからだが揺れ吊り橋全体も揺れた。吊り橋の上では桐吾と晃人がそれぞれの肩でザイルを支えゆっくりと繰り出している。場所こそ違え昔三人でこれに似た遊びをやった記憶が浮遊感覚野の中に蘇える。朱女は真下に落ちたらしく橋板の折れていた場所から降下すれば風でからだや橋が大きく揺れぬ限りまっすぐ巣の窪みに到達する。そのままそのままなどと互いに呼びかわし降下し続ける。朱女の名を呼んでみる。返事はない。
窪みに達した。
「行くぞ」
「おお」頭上はるかの二人が応じる。
ザイルが巻きついている位置を乳の下まで押しやり頭を下にする。鎌で巣の糸を切り裂いた。数十匹のヨッパグモが白い粉の如く宙に舞った。粘り気のある糸が鎌にからみつく。鎌の刃から糸をとってはまた切り裂く。ヨッパグモは朱女が巣に穿った穴をすぐ復旧したようだ。降下の速度は宙を降下していた時と変わらない。ゴーグルを持ってくればよかったと思うがあわてていたためそこまで考えが及ばなかったのだ。濃密な雲の中ヨッパグモが眼にとびこまぬよう切り裂く時には眼を閉じねばならない。切り裂くたび掛け声のように朱女の名を呼ぶ。返事はない。耳の穴がむず痒い。
むず痒さがからだのあちこちに拡がりはじめた。ヨッパグモに噛まれているようだ。下方に眼を凝らすがただ乳白色があるばかりだ。頭上を見るとまだ小さく青空があった。むず痒い。ヨッパグモたちが齧っているのだな。朱女が糸にくるまっているのではないか。彼女のからだを切り裂いたりしてはならない。さらに眼を凝らすが眼下の乳白色に濃淡は見られない。朱女はどこまで落ちたのだろう。
懐かしい感覚が戻ってきた。忘れていた感覚だ。時おりちらりと芳香だけを嗅ぎとることができてすぐ遠ざかっていったあの感覚だ。まるで心の奥の混沌に舞い戻っていくようだ。子供の頃の朱女がいる。乳白色の朝霧につつまれたこの朝はあの高校の木造の校舎の中だろうか。朱女は一方で大人になり現在の妻でもある女性として陽光の中の教室の隅にいる。
「君はヨッパグモのお姫さまだったのかい」
朱女は何か作っているようだ。
「お菓子を包んでいます。これから電報を打たなければなりません」
なるほどなるほどと思う。「国家を編集するんだね」
「あなたは逃げ出さないでください」
糸を紡ぐようにもうひとつの論理による筋道立った会話が次つぎと繰り出されていく。これは非常に重要な話なのだと理解でき納得できるのだ。
「合掌してください」
映画館の前だ。合掌せよというのが映画を見ようということなのだとすぐに翻訳できる。ああ。この国のことばがわかりはじめたぞ。しかし映画館の中でやっているのは紙芝居なのだ。
「ことばはみんな商号だったようだね」
「そんな人はみんなお寺の裏に集ってもらいました」
朱女が八畳の間にいる。巣を背にしていてまるで彫刻のようだ。今日は文化の日だったかな。「何もかもを失ったように思っていたんだけど雨が降ったりした時は君が本当に好きなんだよ」
朱女は華やかな笑顔でのけぞる。「もうそんな時代になっていたんですか」
「知らなかったの。桐吾や晃人も一緒なんだぜ」
みんな雑誌の挿絵になりはじめていた。散髪屋の横の路地で誰かが来るのを待っているのだ。
「いくら耕やしたって電力が供給できないでしょう」
「大丈夫。もう君のことばがわかるんだから」だからこそ中小企業が成り立っているんじゃないかと思う。ありあまる存続の糸をたぐり朱女は財貨を貯え続けているのだ。
「でもそれは世間体に過ぎませんから」
「ぼくなら君の統治する国家に喜んで」いや。すでに彼女の支配下にあるではないか。
「崩壊させてもらうよ」
「いいえ。これは説話の世界じゃないのですよ。何か聞こえるでしょう」
「ありがとう。この辺に小屋掛けをするから」農協の隣りがいいだろう。
「ほら。甘い感触でしょう」
奇妙なのは村人たちの方であったのだ。「和紙を張りめぐらせて独立すればよかったんだ」
「よく見えるわ」
朱女の宣言ですべての人間が悟るだろう。陵辱されたのは実は自分たちの方であったことを。定価などないのだ。「そうだ。村以外のすべてを逆に封じこめてやろう」
「ええ。名刺にそう印刷しておきましょうね」
朱女は白無垢を着て手に白磁の器を持っている。その上下から鍾乳洞のような凹凸が垂れ下がり突き出ている。
「自由だったんだ」
「そうよ。その鎖をはずしておしまいなさい」
なぜかいちばん声の弱い意識の表面の方からの抑止が逆に深層へ向かって働いている。やめろ。やめろ。白夜の中に踏み迷うぞ。しかし胸を締めつけている鎖から抜け出さずにはいられない。
突然の落下。気がつけば水の中だ。底が浅い。幻覚の中で自らザイルを振りほどいたようだ。水は流れている。僧都川だな。巣を突き抜けてヨッパ谷の谷底へ落ちたに違いない。あたりはうす暗いが見あげるとヨッパグモの巣によって天井が乳白色のドームになっている。朱女の声が聞こえた。岸を見ると白い岩場の上で白い犬が吠えている。まだ幻覚の中にいるのだろうか。円天井からの極めてわずかな光線によってこの世ならぬ白銀色の奇怪な光景が周囲にある。
「あなた。わたしはここです」
岸で朱女が呼んでいた。幅二間ほどの川の中央で立ちあがり腰まで水に浸ったまま彼女の方へ歩き出す。「無事だったね」
「あなたがきっと来てくれると思っていました。だからここにいたんです」
岸にたどりつくとシロが走ってきて足にまといついた。「シロだ。こいつ生きていたんだ」
「お魚を食べて生きていたんです。ほら。この辺お魚がいっぱい」
淵に岩魚がうようよしていた。上から落ちてくるヨッパグモを食べるためだろう。ヨッパグモが魚を食べるという話とはまるで逆だったのだ。岸辺は土の上も岩の上もヨッパグモの死骸でまっ白である。「天国のイメージだなあ」
「ほんとうに」
朱女と抱きあう。「巣の中を通り抜けたために君のことや君の言うことが理解できるようになったよ」
「噛まれたのですね。わたしはまっすぐここまで落ちてきました」
強靭なヨッパグモの糸のお蔭で川底へ叩きつけられずにすんだのだ。笑いあいまた抱きあう。「しかしすごい数の魚だなあ」
「ええ。秘密の漁場ですね。また来ましょうね」
「うん。また来よう」
もう少しそこにいてあたりの景色などを楽しみたかったが吊り橋の上では桐吾や晃人が心配している筈だった。
朱女が流れを指した。「あの巣の下さえ潜れば下流に出ます」
朱女は川の中ほどまで歩いて行って全身を水に浸し流れに身をまかせた。シロを抱いて彼女に続くと黄色い着物の朱女が黄金の巨大な錦鯉のように見えた。川面すれすれにまで巣が垂れさがっているすぐ手前で朱女が水に潜った。頭を鷲づかみにするようにシロの両耳を片手で塞いでやり彼女に続いてほんの少し潜る。水面に浮かぶなり川は何段にもなったゆるやかな滝となり二人と一匹はひとかたまりになって水蘚の生えた岩の棚をゆっくりところがり落ちて行く。
(「新潮」昭和六十三年一月号)
Full text of "Yoppadani heno Koka" (Yoppadani heno Koka ―Jisen Fantasy Kessakusen―, Shinchosha, 2005), by permission of Yasutaka Tsutsui and Shinchosha.
『ヨッパ谷への降下 —自選ファンタジー傑作選−』(新潮文庫、2005)所収「ヨッパ谷への降下」を筒井康隆氏と新潮社の許可を得て全文掲載