今夜すべてのバーで
中島らも
この病院は、どうしてもおれを眠らせないつもりのようだ。
赤河が去った後、まどろみかけたところで廊下をガラゴロと雷のような音が近づいてきた。病室の戸が開き、頭に三角巾、マスクで顔をおおったおばさんがワゴン車を押して入ってきた。
「夕食でえす」
病室の全員がむっくり起き上がる。全員素早く、枕元のテーブルからスライド式にはめ込まれた食台を引っ張り出す。おれもあわててそれを真似る。引き出し加工になったその板は、上部にアルミの板が張られて銀色に光っている。
マスク姿のおばさんは、ワゴンの中の盆を取り出しながら、その盆に添えられた名札を読み上げていく。
「西浦さん、はい。福来さん、はい。綾瀬さん、はい。吉田さん、はい。小島さん、はい」
みごとな素早さで、各自の机に食事が配給される。おばさんは一礼すると、またワゴンを押して、隣の病室へ去っていった。
おれは置かれた自分の盆の中をのぞき込んだ。プラスティックの丼の中に、七分目ほどの白粥がはいっている。別の平皿には豆腐と根菜の煮物、アルミホイルに包まれた魚片の蒸しもの、梅干し。
これが赤河の言っていた、「高蛋白高カロリー」の栄養食なんだろうか。おれは首をひねった。
それとなく同室の他の患者の食事に目をやると、なるほど病状によってそれぞれの献立がちがうようだった。粥の人もいれば普通の白飯の人もいる。綾瀬少年などは気の毒に、貝の汁と野菜と粥だけだった。若いのにそれでは保たないだろうが、たぶんそれは腎臓病の患者用の特別食なのだろう。
どうやら同病者であるらしい福来氏の食事は、おれとまったく同じメニューらしかった。オランウータンの西浦老にはなんと「バナナ」が一本ついている。バナナを手にした西浦氏は、もはや人間の姿とは思われなかったが、おれには笑う元気がなかった。
総体に食事内容はいかにも病人食で、脂っ気のない、消化のいいものばかりで占められているようだ。ま、いずれにしてもおれにはどうでもいいことだ。まったく食欲というものがないのだから。一口でも固形物を入れたら吐いてしまいそうな気がする。
事実、この半月ほど、おれはウィスキーとミルク、ハチミツ、この三種の液体だけしか口にいれていないのだ。「露命をつなぐ」とはまさにこのことだろう。食道もたぶん細くなっているだろうし、胃にいたっては握りこぶしくらいの大きさに縮んでいるような気がする。
粥を一口だけ食ってみようか、とも思ったのだが、ひとさじすくって口元に持っていくと、むうっとした温気が鼻の穴を襲った。腹の奥から酸がせり上がってくる。おれはあきらめて、手つかずの盆を廊下の回収用プレートの上に出した。
立ったついでにトイレにも行く。
なるほど、一方の壁に大きなビニール袋がずらっと並んでいて、その中に尿がためてある。袋にはおのおの「西浦」「吉田」と名札がついている。袋の側面には目盛が印刷されていて、採尿総量が読めるようになっている。おれの袋もかかっているが、これはもちろん空でペシャンコだ。
おれは並んだ袋をざっと見渡して、誰が「排尿量ナンバーワン」かを見比べてみた。文句なしに吉田垂水老がトップだった。普通の人の倍の量はある。なみなみと袋に満ちて重量感がある。別に多いものがえらいというわけではないだろうが、おれはその圧倒的な量に「威圧」された。
トイレの入り次附近に置いてあるビーカーを手に取る。'採尿後はよく洗って戻しておいてください'と書いたラベルが貼ってある。病院というところは、やたらに何にでも貼り紙がしてある。
ビーカーに向けて放尿する。おれはいやな気分になった。尿がまだ紅茶かコーラのような色のままなのだ。この褐色の尿は、三ヶ月ほど前に初めて出た。最初は驚いた。比喩ではなくて、ほんとうにコーラのような色をしていたからだ。おまけに胸のむかつくような、いやな匂いがする。
そのときは、二、三日でもとの色にもどった。過労だろうというので、そのうちに忘れてしまった。そして、ここ二ヶ月ほど、過飲のたびにこの黒い尿が出るようになり、ついに元にもどらなくなった。
おれは悪臭に顔をしかめて、そのコーラ色の液体を、自分の名札のついた袋に流し込んだが、できれば捨ててしまいたい気分だった。隣にぶら下がっている吉田老の袋の、黄金色の液体の堂々たる量。その横に並んだおれの袋は暗くしおたれていて、まるで吉田老の袋の「家来」のようだった。
おれはこの自分の黒い尿袋が不特定多数の人間の目に触れると考えると、異常なほどの「恥ずかしさ」を覚えた。それはここ何年も感じたことのない、「身も世もあらぬ」ほどの恥ずかしさだった。
ひと仕事終えると、たったそれだけの緊張でぐったりとなってしまう。
おれは、もう半日以上も煙草を吸っていないことを思い出した。
廊下の中央まで歩いていくと、そこに喫煙室がある。ベンチをふたつ置いた、四畳半ほどの小部屋だ。本棚があって、マンガ本や週刊誌、新聞などが積まれている。
おれは腰をおろして、トレーナーのポケットからロングピースを出し、一本抜いて火をつけた。
***
おれは三人の人間に、'三十五歳で死ぬ'ことを予言されていた。
その一人は医者だ。
二十五歳の冬に、おれは酒焼けで顔の色がまっ黒になった。それは陽焼けの色とは少しちがう、蒼黒い粘土のような、いやな色だった。黒人の中にたまに皮膚の性質なのか、光をまったく反射せずに吸い込んでしまうような、「灰をまぶした」ような黒さの人間がいる。ああいう感じの、生気の失せた黒さだ。
当時のおれは、新聞社で文字校正のアルバイトをしていた。ある日、二日酔いの青色吐息で文字校に朱を入れていると、後ろからポンと肩を叩かれた。顔見知りの記者だ。
「よう、ちょっと見ないと思ってたら。いいなあ君はそうやって」
「なんですか?」
「スキーに行ってたんだろ?雪焼けして」。
おれはその日、帰りの地下鉄の中で、窓ガラスに映る自分の顔と、まわりの人間の顔色とを見比べてみた。たしかに自分の顔色は黒い。それも健康的に黒いのではなくて、「どどめ色」に焼けたような黒さだ。雪焼けとまちがわれるくらいなら、よほどのことなのだろう。
十八歳くらから、見栄を張って大酒を飲んでいるうちに、内臓がバカになったか耐性ができたのか、ほんとうに強くなってしまっていた。ウィスキーなら一本くらい。それでもまだシャンとしていて、逆に酔いつぶれた友人の介抱をしたりした。
その頃は学生だったから金もなくて、飲めない日も織りまぜてのことである。一週間のうち、ドライに過ごす日も二日や三日はあったのかもしれない。
大学を出たものの、最初に勤めた訪販の会社は一ヶ月で辞めてしまった。以降、定職についたりアルバイトをしたりの繰り返しで二十五歳になった。
なんとか金がはいってくるので毎日飲むようになった。飲み出すと果てしがなかった。外で飲むほどの金はないから、いつもトリスのキングサイズをかたわらに置いて、ストレートであおった。おれのアパートには冷蔵庫がなかった。氷なんてものとは無縁の生活だった。つまみも有ったり無かったりだ。とにかく早く酔っ払ってしまいたかったのだ。
トリスのキングサイズは三日で一本、早ければ二日で一本のペースで空くようになっていた。
あまりよくトリスを買いに行くので、近所の酒屋の主人がウィスキーグラスをおまけに紙袋に入れてくれたことがある。
「これは普通、リザーブにつけるおまけなんだけどね」
おれは、それ以来その酒屋へ二度と行かなかった。'憐れまれた'と思ったのだ。
その頃のおれには、貧しいがゆえのプライドのようなものがあった。自分は'特別な人間'だという意識。世に容れられず、また力の試し方を知らないためによけいに狂おしくつのっていく自分の才能への過信、不安、その両方が胸の奥で黒く渦巻いていた。
おれは自分を憐れんだ酒屋の主人、および、憐れまれた自分、双方を許せなかったのである。
いまであれば何でもないことのいちいちがその頃のおれにはひっかかった。押せば青汁の出そうな、まっ青な青年だったわけだ。
ウィスキーの量はますます増えた。その結果青かった青年の顔はまっ黒になってしまった。
スキー焼けと言われた次の日、病院に行った。採血、触診をして四日後出頭すると、小太りの医者はカルテを見ながら、
「肝臓、悪いよ」
と言った。肝機能を示す数字、GOT、GPT、γGTPなどが正常値をはるかに越えているという。とりあえず、一ヶ月の禁酒を言い渡された。
このときは初めての医者がかりだったので、さすがに三週間、一滴も飲まなかった。
三週間後に行くと、医者は、数字はもとにもどっている、と言った。
「さすがに年が若いから、回復も早いんだろうね。ただ、これは言っときますがね。あと十年、この調子で飲み続けたら、もうまちがいない。百パーセント、肝硬変だ。死にますよ、あなた」
その自信に満ちた口調は、いまでも耳に焼きついている。
そしておれは、その後の十年間、同じ調子で飲み続けた。
これが一人目の予言者だ。
もう一人はプロの占い師だった。
この人は街の一角にある「占い村」のような所に店をかまえている人で、その一画の中でもことによく当たる、と言われている占い師だった。八卦見である。
「この先三、四年は良い運が続く。才能が芽を吹き、努力がむくわれる。ただ、金運はあまりついてこない。女運もよくない。命取りになるくらいの大失恋がある。三十五歳にかなりの凶相が出ている。喉、気管支、胃、肝臓、このあたりの病いに気をつけなさい」
それから十年で、この占いのほとんどは当たった。おれは、働きながら本を一冊書いた。それはおれの敬愛する評者たちからかなりの評判を受けた。ただし、出版社はすぐに倒産して、本自体は五百部ほど売れたにとどまった。
女のことも図星で、おれは天国と地獄の間を行ったり来たりした。
三十五で倒れたのもご覧の通りだ。
これが二人目。
三人目は、おれの昔の友人、天童寺だ。天童寺不二雄という。十八、九で知り合って、よくいっしょに無頼をやった。この男は横紙破りの悪童だったが、同時に天才詩人でもあった。本人は何を書き残すでもなかったが、その立居振舞、ケンカの売り買い、飲んで倒れての寝言まで、在り方自体が詩作品のようにそげた美しさを孕んでいた。これを一言で説明するのはむずかしい。天童寺は、彼の生そのものが、いっさいの感傷やレトリックを剥落させた、硬質の「詩」であるような男なのだ。おれはいまでも天童寺のあの深い声とやせた胸のあばらを思い出す。
天童寺は二十代の終わりに、神戸の町のかたすみで、酔って車にはねられて即死した。
そいつが若い頃、おれに言ったのだ。
金がはいって、久しぶりに二人で場末のバーにくり出したときだった。
またたく間にウィスキーを一本空けたおれを見て、
「おまえは三十五までだな。三十五まで」
何度も天童寺はそう言って笑った。そのくせ、自分の寿命については何ひとつ言わなかった。
さすがに、三人の人間から同じことを言われると、気にはなる。
かと言って、そういう暗示におれ自身が操られてこうなった、という気はまったくしない。
気がつくとおれは死にかけていて、よくよく考えると、まさしくこれが三十五歳だったのだ。
このときの感じというのは、悲しみでも怒りでも当惑でもない。強いて言うなら、初めて手品を見たときの子供の驚愕、これにいちばん近いだろう。
何のどういう働きで、推理法で、統計学で、あるいは直感、霊感で、これらの三人は一様に「三十五」という数字をはじき出してきたのだろう。
そうしてまた、どうして根っからの天邪鬼のおれが、そうした予言に柔順に呼応するように、こうして倒れているのだろう。
いずれにしても、そうした変異が起こっているのは、おれの肉体の舞台の上なのだ。おれはいまや唾を呑んで見守っている一人の観客だった。悲しみも怒りもそこにはない。驚き呆れ、そしてついには大団円を見て、手を叩いて笑うのかもしれない。
***
おれは、天童寺不二雄といっしょに、京都の山の中腹にある「鰓の寺」にいた。寺は祭りの最中で、さまざまな屋台や見世物小屋が、長い参道にひしめいていた。
おれと天童寺不二雄は、寺の山門のあたりに腰をおろして、下から登ってくる長い人の列を見おろしていた。
列は三つの縦の層に分かれていて、左側が爺さん、右側が婆さん、そしてまん中の列を登ってくるのは身長一メートルくらいの、男とも女とも判別のつかない小人の群れだった。
左右の老人たちは、いずれも七十はとうに越えているようで、念仏を唱えながら杖をついて、ゆっくりゆっくりと石段を登ってきていた。
おれと不二雄が座っている山門の後ろでは香がたかれているらしく、紫色の煙がときどきふっと狐の尾のような形で流れてきた。
不思議なのは、これほどたくさんの老人が登ってくるのに、降りていく人の姿がいっこうに見当たらないことだった。
その疑問を不二雄に話すと、彼は山頂の方をさし示した。
「ほら。こいつらがお参りにいくのは、あれだから」
見ると、山頂には、いただきいっぱいを埋めつくして、ひとつの肉塊がうごめいていた。それは一匹の巨大ナメクジのようで、紫色のあざやかな体表や、体の底部についたフリル状の膜を見ると、ウミウシかアメフラシのようにも見えた。
「昨日の夜、急に山頂に貼りついてたんだそうだ」
不二雄は笑いながら言った。
「朝刊にのったら、とたんにみんなこうやってお参りにき始めたらしい」
「へえ」
おれは不安な気持ちで、その山頂の巨大なアメフラシをながめた。
「あれはずっとあそこにいるつもりだろうか。山をおりてきたりしないだろうか」
「さあな。こっちから爺さん婆さんが押しかけていってるんだから、わざわざ降りてくる必要もないんじゃないか」
「すると、この、いま登っていく人たちというのは......」
「ああ。ヘリコプターから撮ったフィルムを見るとな。あいつの横っ腹には無数の穴があいていて、そのひとつひとつからアリクイの舌みたいなものが出ているようだ。念仏を唱えてる人間の、その音に反応して、山頂じゃ一人ずつ'まくり込まれてる'らしい」
「全体、あれは何なんだ」
「腔腸動物だ」
不二雄はきっぱりと言った。何に関してでもきっぱりと言い放つのが不二雄の癖だった。断言した事柄が真実であろうが誤りであろうが、不二雄にはどうでもいいことなのだ。その場の気配がくっきりとしたものになって、相手と自分の力関係が明らかになればそれでいいのである。ときとして彼は、その癖のために、自分や人をとんでもない危険の方へ導いていくことがある。
「で、おれたちはどうするんだ」
「しばらくここで様子を見る。それから、できれば上まで登ってみたい」
「登るのか」
「ああ。登ってみたい」
「おれはごめんだな。ぽっくりツアーみたいな爺さん婆さんといっしょに、あんなもののところまで行くのは」
「しかし、うまくいけばあれの香腺液だけを取って帰れるかもしれないじゃないか」
「香腺液?」
「なんにも知らずにここまで来たのか。驚いた奴だな。君はこの匂いに気づかなかったのか」
言われてみれば、さっきからまわりの空気に、さわやかなライムのような、それでいてもうすこし甘味を帯びたような芳香がただよっていた。
「これは何だろう。線香の匂いじゃないな」
「この匂いが、あれの分泌している香腺液の匂いだよ。山の上から吹きおろしてくる風にのって流れてくるんだ。みんなあの匂いにつられて登っていくんじゃないか」
「ああ、そうなのか」
「食虫植物は虫をおびき寄せるのに、甘い匂いを出すだろう。動物もジャコウジカみたいに胸腺から芳香液を分泌したりする。ある種のゴキブリは、羽の下に甘くてたまらない味のする分泌物を出して、メスがそれを夢中でなめてる間に交尾するんだ。あれの出す香腺液は、人間にとっては至上の宝物だ。'歓びの液体'というのがあれさ」
「ああ、あれがそうなのか」
おれはその名を昔から聞いて知っている気がした。
「徐福もマルコ・ポーロもアレキサンダーも、みんなあれを求めて世界中を旅したんだ。錬金術師が言う賢者の石も、あの香腺液の結石化したもののことだ。ほら、これだよ」
不二雄はポケットから薬包を取り出して、開いてみせた。紫色の水晶のような、ほんの〇・五ミリほどの結晶がひとつぶだけ、紙の上にのっていた。
「これがそうなのか」
「そうさ」
「これをどうすればいいんだ」
「いいものを見せてやろう。ついてこいよ」
不二雄は立ち上がると、山門の中へはいっていった。
はいってすぐのところに手水場があった。大きな石臼のくぼみに清冽な水が満々とたたえられ、ひしゃくが二、三本添えられていた。水は石のくぼみから際限なく湧いてくるようだった。かたわらに立て札があり、
「鰓の寺、石臼の湧水」
と書いてある。例によって弘法大師が石臼を杖で突いたら、清水が湧き出して云々、といった説明が寄せられている。
「いいか、小島。よおく見てろよ」
不二雄は薬包を取り出すと、中の紫水晶のような結晶を大事そうにつまみ、それを石臼の水の中に静かに落とした。
結晶が落ちたとたんに、水の色がさっと透明な薄い紫色に変わった。同時に、言いようのない甘酸っぱくすがすがしい香りがあたりにたちこめた。
「さ。飲んでみろよ」
不二雄は、ひしゃくでその水を汲むと、おれの鼻先に突きつけた。おれは受け取って、おそるおそる一口だけ口に含んでみた。
口の中で冷たい玉がはじけるような感覚があった。つぎに口腔内から鼻先へ、花の精のような芳香がすっと抜けて出た。感じるか感じないかというぐらいの、ごくほのかな甘みが舌先にあり、上質の果実のような淡い酸味も感じられる。そしてその味わいの重なりの間に、なにやら未知のコク、いまだ名づけられたことのないであろう軽やかな味覚が潜んでいた。飲みくだすと、その液体は涼しい流れのままに喉を降りていき、口の中には淡い紫色の余韻だけがかすかに残り、やがて消えた。
「うまいか」
「うむ」
これを評する言葉が出なかった。'何々のような味だ'というたとえに引き出せる対象がなかったのだ。それよりも、早くふた口目を飲みたかった。
おれはひしゃくに口をつけ、今度は息もつかずにごくごくと飲んだ。
不二雄も自分のひしゃくに汲んで、目をとじて飲んでいる。口元からこぼれたしずくが一すじ二すじしたたり落ちた。
「うーん、なんとも言えんな」
不二雄は一気に飲みほすと、また石臼の中にひしゃくを突っ込んで、二杯目を汲んだ。
「しかしな、天童寺」
「なんだ」
「これは湧き水だから、どんどん湧いてくるんだろ。早く飲まないとすぐに薄まっちまうだろうな」
「それは大丈夫だ。この結晶はゆっくりゆっくり溶け続けるからな。二日や三日じゃ溶けきらないさ」
「............」
「それより、好きなだけ飲めよ。なあに、いくら飲んでも大丈夫さ。酔っ払ってぶっ倒れるってことがないからな、こいつだけは」
「酔うって......これは酒なのか?」
「馬鹿だな、何だと思ってたんだよ」
言われてみると、胃のあたりにほんのりとあたたかな感じがしている。
おれは二杯目に口をつけた。ひしゃくの半分くらいまでを味わって飲んでいると、今度はたしかに胃の全体に陽がさしているような熱感を覚えた。まちがいない、これは酒だ。
しかし、通常の酒のように、舌を刺すようなアルコールのとげや、臭さがまったくない。酒飲みのおれでさえそれと気づかないほど、これはさわやかで軽い飲み口を持っていた。
それに酔いの最初のキックも、ウィスキーやウォッカのように、胃がカッと灼ける感じではなく、胃の中に小さな小さな太陽が生まれて、そこから体の内部をあたたかく照らしているような、そんな酔いなのだ。
おれと不二雄は、しばらくはものも言わずに夢中になって飲んだ。
五、六杯も飲むとさすがに酔いがまわってきて、全身を多幸感が満たした。そのくせ、飲み疲れて飽きるということはまったくなかった。おれと不二雄は、ものも言わず、ときどき目で微笑をかわすだけだった。
「なるほどなあ」
おれは幸福でいっぱいになって、初めて口をきいた。
「長い間探していたのは、これだったんだな。まさk、こんなものがほんとうにあるとは思わなかったけど」
「そうだろ?おれもずっとこいつを探していたんだよ。フルーツみたいにいい味で、陶然と酔って、二日酔いもせず、飲めば飲むほど体が元気になっていく。そんな酒をずっと探していたんだ」
「これがいつでも手にはいったら、天国なんだけどな」
「大丈夫。手にはいるさ。おれが今から山の上までいって、あれの香腺液をしこたま取ってきてやる」
「いや、危ないからよせよ。死んじまったらどうするんだ、天童寺」
「なあに、そんなに近くまで寄ることはないんだ。あれが移動した跡には、ナメクジの跡にたいに香腺液の帯ができてるはずだ。日中の陽ざしで結晶化して、こぶし大くらいの奴がごろごろ転がっている。楽なもんさ。おれとお前で、千年かかっても飲みきれないくらいの量はたちどころに集まるさ」
またも不二雄は断定的な口調で言った。
「じゃ、おれもいっしょに行くよ」
「だめだ。年寄りの行列の中に、若いのが二人も混じっていると目立ってしまう。いいから小島はここで飲んで待ってろ。二時間ほどで帰ってくるから」
不二雄は言うと、最後の一杯をうまそうに飲みほし、ひしゃくをカランと石臼の中に放り込んだ。
「じゃあな」
「ああ、気をつけろよ」
不二雄は山門を出て石段を下り、老人たちの長い行列に向かって歩いていった。
おれは少し不安になって、その後ろ姿を見守った。
老人たちの行列は、相変わらず果てしない長さで連なっていて、その数はさっきよりもずいぶん増えているように思えた。
天童寺不二男はその列の中に混じると、やがて人波の中に吸い込まれて判別がつかなくなってしまった。おれは目をこらしてその行列をながめた。
列の中に福来に背負われた西浦老人の姿が見えた。福来は、露骨にいやそうな顔つきをしていたが、西浦老はその背中に蛸のように貼りついて離れず、猿そっくりに歯をむき出して笑っていた。
その何列か後ろに足を引きずりながら歩いているのは吉田老人だ。額がぱっくり割れて、顔中血まみれになっている。
おれはその行列が黙々と進んでいく行く先の山の頂上を見上げた。
巨大なアメフラシは、最初に見たときよりもひとまわりかふたまわり大きくなっていた。動きも前より活発になったようで、体の横にある何千枚というフリル状の肉ひだが、うねうねとさかんに蠕動していた。
おれはそれを見て、アメフラシがもうすぐ動き出して、山の斜面をくだり始めるにちがいないと確信した。
「おーい、天王寺、危ないから帰ってこい」
おれは声をふりしぼって叫んだ。
「小島さん、小島さん」
看護婦に揺さぶられて目が醒めた。背中一面にぐっしょりと冷や汗をかいていた。
「採血をしますから起きてくださいね」
どんよりと頭の中が曇っている。たまらなく喉が渇く。おれはあれが飲みたい。薄紫色の液体。いい香りのする、ほんのり甘い石臼の中の酒。神話の酒。ネクタール。神の酒(ソーマ)。
看護婦に預けた腕にゴムのチューブが巻きつけられる。こぶしを握る。浮き立つ血管。おれはまた顔をそむける。チクッと痛みが走る。管の中におれのどす黒い血がたっぷりと吸い上げられる。
口の中に体温計が突っ込まれる。
脈。
血圧が計られる。九〇~一六〇。高い。あんなに血を抜いたのにねえ。
「今日から毎日、二時半から三時の間に、自分で体温を計ってくださいね。体温計はふらずにそのまま枕元のケースに入れといてください。定刻に集計して回りますから。それから、毎週火曜日に詰所の体重計で体重を計ります。これも忘れないように。いま何キロあるの?」
「さあ、五十キロくらいですか」
「ずいぶんやせてるものねえ」
「前は五十八キロから六十キロくらいあったんですけどね」
看護婦は気のせいか、うらやましそうな眼でおれの削げおちた頬を見た。その瞬間、おれは自分の書くべき本のタイトルを思いついた。おれの書くべき本は、ミステリーなんかではなかったのだ。
『病気でやせるダイエット』
これはベストセラーまちがいなしだ。なぜ早く気づかなかったのだろう。
「なにをニヤニヤ笑ってるの?」
体温計を口から抜きながら看護婦が尋ねた。
「いや、別に......」
枕元に、ビタミン剤ではない、初めて見る薬が置かれる。
「小島さん、このお薬を今日から二日間、毎食後二錠ずつ飲んで下さい。これは明後日の腹部エコー検査用のお薬ですから、忘れないようにね」
「あの......それって、あれですか。腹に穴あけて中身を見るっていう」
「それは肝生検でしょ。そうじゃなくて、腹部エコーです」
「痛いんですか」
「痛くはないわよ。音波で調べるだけだから。なに、恐いの?」
「いえ......はい」
「今日はこれから心電図を取りますからね。それと排尿量の検査とは別に尿検査をしますから、検尿窓口に出しておいてください」
「けっこういろいろあるんですね」
「当分はいろいろな検査がありますから、ハードかもしれないわよ。糖の分解速度の検査、糖負荷検査っていうんだけど、これのときには三十分おきに五回も採血しないといけないし。とにかく静かに横になってちゃんと食べて、体力つけないとね」
「はい」
「それはそうと、小島さん、あんまりお水飲んじゃだめよ」
「はい?」
「おしっこがどんどん出るのはいいことだけど、あんなに出るのはお水の飲み過ぎよ。胃酸が薄まって消化に悪いわよ」
看護婦の真剣な目つきで、おれは昨日の排尿袋の一件を思い出した。眉根にしわを寄せて、極力真剣な表情をつくり、おれはうなずいた。
「わかりました。気をつけます。おれ、生まれつき水が好きなもんですから」
「そう。そんなに水が好きなら、お酒なんか飲まずに水を飲んでりゃよかったのに」
「そうですね」
その後、検査室で心電図をとり、病室へ帰ると、また点滴が待っていた。
赤河が去った後、まどろみかけたところで廊下をガラゴロと雷のような音が近づいてきた。病室の戸が開き、頭に三角巾、マスクで顔をおおったおばさんがワゴン車を押して入ってきた。
「夕食でえす」
病室の全員がむっくり起き上がる。全員素早く、枕元のテーブルからスライド式にはめ込まれた食台を引っ張り出す。おれもあわててそれを真似る。引き出し加工になったその板は、上部にアルミの板が張られて銀色に光っている。
マスク姿のおばさんは、ワゴンの中の盆を取り出しながら、その盆に添えられた名札を読み上げていく。
「西浦さん、はい。福来さん、はい。綾瀬さん、はい。吉田さん、はい。小島さん、はい」
みごとな素早さで、各自の机に食事が配給される。おばさんは一礼すると、またワゴンを押して、隣の病室へ去っていった。
おれは置かれた自分の盆の中をのぞき込んだ。プラスティックの丼の中に、七分目ほどの白粥がはいっている。別の平皿には豆腐と根菜の煮物、アルミホイルに包まれた魚片の蒸しもの、梅干し。
これが赤河の言っていた、「高蛋白高カロリー」の栄養食なんだろうか。おれは首をひねった。
それとなく同室の他の患者の食事に目をやると、なるほど病状によってそれぞれの献立がちがうようだった。粥の人もいれば普通の白飯の人もいる。綾瀬少年などは気の毒に、貝の汁と野菜と粥だけだった。若いのにそれでは保たないだろうが、たぶんそれは腎臓病の患者用の特別食なのだろう。
どうやら同病者であるらしい福来氏の食事は、おれとまったく同じメニューらしかった。オランウータンの西浦老にはなんと「バナナ」が一本ついている。バナナを手にした西浦氏は、もはや人間の姿とは思われなかったが、おれには笑う元気がなかった。
総体に食事内容はいかにも病人食で、脂っ気のない、消化のいいものばかりで占められているようだ。ま、いずれにしてもおれにはどうでもいいことだ。まったく食欲というものがないのだから。一口でも固形物を入れたら吐いてしまいそうな気がする。
事実、この半月ほど、おれはウィスキーとミルク、ハチミツ、この三種の液体だけしか口にいれていないのだ。「露命をつなぐ」とはまさにこのことだろう。食道もたぶん細くなっているだろうし、胃にいたっては握りこぶしくらいの大きさに縮んでいるような気がする。
粥を一口だけ食ってみようか、とも思ったのだが、ひとさじすくって口元に持っていくと、むうっとした温気が鼻の穴を襲った。腹の奥から酸がせり上がってくる。おれはあきらめて、手つかずの盆を廊下の回収用プレートの上に出した。
立ったついでにトイレにも行く。
なるほど、一方の壁に大きなビニール袋がずらっと並んでいて、その中に尿がためてある。袋にはおのおの「西浦」「吉田」と名札がついている。袋の側面には目盛が印刷されていて、採尿総量が読めるようになっている。おれの袋もかかっているが、これはもちろん空でペシャンコだ。
おれは並んだ袋をざっと見渡して、誰が「排尿量ナンバーワン」かを見比べてみた。文句なしに吉田垂水老がトップだった。普通の人の倍の量はある。なみなみと袋に満ちて重量感がある。別に多いものがえらいというわけではないだろうが、おれはその圧倒的な量に「威圧」された。
トイレの入り次附近に置いてあるビーカーを手に取る。'採尿後はよく洗って戻しておいてください'と書いたラベルが貼ってある。病院というところは、やたらに何にでも貼り紙がしてある。
ビーカーに向けて放尿する。おれはいやな気分になった。尿がまだ紅茶かコーラのような色のままなのだ。この褐色の尿は、三ヶ月ほど前に初めて出た。最初は驚いた。比喩ではなくて、ほんとうにコーラのような色をしていたからだ。おまけに胸のむかつくような、いやな匂いがする。
そのときは、二、三日でもとの色にもどった。過労だろうというので、そのうちに忘れてしまった。そして、ここ二ヶ月ほど、過飲のたびにこの黒い尿が出るようになり、ついに元にもどらなくなった。
おれは悪臭に顔をしかめて、そのコーラ色の液体を、自分の名札のついた袋に流し込んだが、できれば捨ててしまいたい気分だった。隣にぶら下がっている吉田老の袋の、黄金色の液体の堂々たる量。その横に並んだおれの袋は暗くしおたれていて、まるで吉田老の袋の「家来」のようだった。
おれはこの自分の黒い尿袋が不特定多数の人間の目に触れると考えると、異常なほどの「恥ずかしさ」を覚えた。それはここ何年も感じたことのない、「身も世もあらぬ」ほどの恥ずかしさだった。
ひと仕事終えると、たったそれだけの緊張でぐったりとなってしまう。
おれは、もう半日以上も煙草を吸っていないことを思い出した。
廊下の中央まで歩いていくと、そこに喫煙室がある。ベンチをふたつ置いた、四畳半ほどの小部屋だ。本棚があって、マンガ本や週刊誌、新聞などが積まれている。
おれは腰をおろして、トレーナーのポケットからロングピースを出し、一本抜いて火をつけた。
***
おれは三人の人間に、'三十五歳で死ぬ'ことを予言されていた。
その一人は医者だ。
二十五歳の冬に、おれは酒焼けで顔の色がまっ黒になった。それは陽焼けの色とは少しちがう、蒼黒い粘土のような、いやな色だった。黒人の中にたまに皮膚の性質なのか、光をまったく反射せずに吸い込んでしまうような、「灰をまぶした」ような黒さの人間がいる。ああいう感じの、生気の失せた黒さだ。
当時のおれは、新聞社で文字校正のアルバイトをしていた。ある日、二日酔いの青色吐息で文字校に朱を入れていると、後ろからポンと肩を叩かれた。顔見知りの記者だ。
「よう、ちょっと見ないと思ってたら。いいなあ君はそうやって」
「なんですか?」
「スキーに行ってたんだろ?雪焼けして」。
おれはその日、帰りの地下鉄の中で、窓ガラスに映る自分の顔と、まわりの人間の顔色とを見比べてみた。たしかに自分の顔色は黒い。それも健康的に黒いのではなくて、「どどめ色」に焼けたような黒さだ。雪焼けとまちがわれるくらいなら、よほどのことなのだろう。
十八歳くらから、見栄を張って大酒を飲んでいるうちに、内臓がバカになったか耐性ができたのか、ほんとうに強くなってしまっていた。ウィスキーなら一本くらい。それでもまだシャンとしていて、逆に酔いつぶれた友人の介抱をしたりした。
その頃は学生だったから金もなくて、飲めない日も織りまぜてのことである。一週間のうち、ドライに過ごす日も二日や三日はあったのかもしれない。
大学を出たものの、最初に勤めた訪販の会社は一ヶ月で辞めてしまった。以降、定職についたりアルバイトをしたりの繰り返しで二十五歳になった。
なんとか金がはいってくるので毎日飲むようになった。飲み出すと果てしがなかった。外で飲むほどの金はないから、いつもトリスのキングサイズをかたわらに置いて、ストレートであおった。おれのアパートには冷蔵庫がなかった。氷なんてものとは無縁の生活だった。つまみも有ったり無かったりだ。とにかく早く酔っ払ってしまいたかったのだ。
トリスのキングサイズは三日で一本、早ければ二日で一本のペースで空くようになっていた。
あまりよくトリスを買いに行くので、近所の酒屋の主人がウィスキーグラスをおまけに紙袋に入れてくれたことがある。
「これは普通、リザーブにつけるおまけなんだけどね」
おれは、それ以来その酒屋へ二度と行かなかった。'憐れまれた'と思ったのだ。
その頃のおれには、貧しいがゆえのプライドのようなものがあった。自分は'特別な人間'だという意識。世に容れられず、また力の試し方を知らないためによけいに狂おしくつのっていく自分の才能への過信、不安、その両方が胸の奥で黒く渦巻いていた。
おれは自分を憐れんだ酒屋の主人、および、憐れまれた自分、双方を許せなかったのである。
いまであれば何でもないことのいちいちがその頃のおれにはひっかかった。押せば青汁の出そうな、まっ青な青年だったわけだ。
ウィスキーの量はますます増えた。その結果青かった青年の顔はまっ黒になってしまった。
スキー焼けと言われた次の日、病院に行った。採血、触診をして四日後出頭すると、小太りの医者はカルテを見ながら、
「肝臓、悪いよ」
と言った。肝機能を示す数字、GOT、GPT、γGTPなどが正常値をはるかに越えているという。とりあえず、一ヶ月の禁酒を言い渡された。
このときは初めての医者がかりだったので、さすがに三週間、一滴も飲まなかった。
三週間後に行くと、医者は、数字はもとにもどっている、と言った。
「さすがに年が若いから、回復も早いんだろうね。ただ、これは言っときますがね。あと十年、この調子で飲み続けたら、もうまちがいない。百パーセント、肝硬変だ。死にますよ、あなた」
その自信に満ちた口調は、いまでも耳に焼きついている。
そしておれは、その後の十年間、同じ調子で飲み続けた。
これが一人目の予言者だ。
もう一人はプロの占い師だった。
この人は街の一角にある「占い村」のような所に店をかまえている人で、その一画の中でもことによく当たる、と言われている占い師だった。八卦見である。
「この先三、四年は良い運が続く。才能が芽を吹き、努力がむくわれる。ただ、金運はあまりついてこない。女運もよくない。命取りになるくらいの大失恋がある。三十五歳にかなりの凶相が出ている。喉、気管支、胃、肝臓、このあたりの病いに気をつけなさい」
それから十年で、この占いのほとんどは当たった。おれは、働きながら本を一冊書いた。それはおれの敬愛する評者たちからかなりの評判を受けた。ただし、出版社はすぐに倒産して、本自体は五百部ほど売れたにとどまった。
女のことも図星で、おれは天国と地獄の間を行ったり来たりした。
三十五で倒れたのもご覧の通りだ。
これが二人目。
三人目は、おれの昔の友人、天童寺だ。天童寺不二雄という。十八、九で知り合って、よくいっしょに無頼をやった。この男は横紙破りの悪童だったが、同時に天才詩人でもあった。本人は何を書き残すでもなかったが、その立居振舞、ケンカの売り買い、飲んで倒れての寝言まで、在り方自体が詩作品のようにそげた美しさを孕んでいた。これを一言で説明するのはむずかしい。天童寺は、彼の生そのものが、いっさいの感傷やレトリックを剥落させた、硬質の「詩」であるような男なのだ。おれはいまでも天童寺のあの深い声とやせた胸のあばらを思い出す。
天童寺は二十代の終わりに、神戸の町のかたすみで、酔って車にはねられて即死した。
そいつが若い頃、おれに言ったのだ。
金がはいって、久しぶりに二人で場末のバーにくり出したときだった。
またたく間にウィスキーを一本空けたおれを見て、
「おまえは三十五までだな。三十五まで」
何度も天童寺はそう言って笑った。そのくせ、自分の寿命については何ひとつ言わなかった。
さすがに、三人の人間から同じことを言われると、気にはなる。
かと言って、そういう暗示におれ自身が操られてこうなった、という気はまったくしない。
気がつくとおれは死にかけていて、よくよく考えると、まさしくこれが三十五歳だったのだ。
このときの感じというのは、悲しみでも怒りでも当惑でもない。強いて言うなら、初めて手品を見たときの子供の驚愕、これにいちばん近いだろう。
何のどういう働きで、推理法で、統計学で、あるいは直感、霊感で、これらの三人は一様に「三十五」という数字をはじき出してきたのだろう。
そうしてまた、どうして根っからの天邪鬼のおれが、そうした予言に柔順に呼応するように、こうして倒れているのだろう。
いずれにしても、そうした変異が起こっているのは、おれの肉体の舞台の上なのだ。おれはいまや唾を呑んで見守っている一人の観客だった。悲しみも怒りもそこにはない。驚き呆れ、そしてついには大団円を見て、手を叩いて笑うのかもしれない。
***
おれは、天童寺不二雄といっしょに、京都の山の中腹にある「鰓の寺」にいた。寺は祭りの最中で、さまざまな屋台や見世物小屋が、長い参道にひしめいていた。
おれと天童寺不二雄は、寺の山門のあたりに腰をおろして、下から登ってくる長い人の列を見おろしていた。
列は三つの縦の層に分かれていて、左側が爺さん、右側が婆さん、そしてまん中の列を登ってくるのは身長一メートルくらいの、男とも女とも判別のつかない小人の群れだった。
左右の老人たちは、いずれも七十はとうに越えているようで、念仏を唱えながら杖をついて、ゆっくりゆっくりと石段を登ってきていた。
おれと不二雄が座っている山門の後ろでは香がたかれているらしく、紫色の煙がときどきふっと狐の尾のような形で流れてきた。
不思議なのは、これほどたくさんの老人が登ってくるのに、降りていく人の姿がいっこうに見当たらないことだった。
その疑問を不二雄に話すと、彼は山頂の方をさし示した。
「ほら。こいつらがお参りにいくのは、あれだから」
見ると、山頂には、いただきいっぱいを埋めつくして、ひとつの肉塊がうごめいていた。それは一匹の巨大ナメクジのようで、紫色のあざやかな体表や、体の底部についたフリル状の膜を見ると、ウミウシかアメフラシのようにも見えた。
「昨日の夜、急に山頂に貼りついてたんだそうだ」
不二雄は笑いながら言った。
「朝刊にのったら、とたんにみんなこうやってお参りにき始めたらしい」
「へえ」
おれは不安な気持ちで、その山頂の巨大なアメフラシをながめた。
「あれはずっとあそこにいるつもりだろうか。山をおりてきたりしないだろうか」
「さあな。こっちから爺さん婆さんが押しかけていってるんだから、わざわざ降りてくる必要もないんじゃないか」
「すると、この、いま登っていく人たちというのは......」
「ああ。ヘリコプターから撮ったフィルムを見るとな。あいつの横っ腹には無数の穴があいていて、そのひとつひとつからアリクイの舌みたいなものが出ているようだ。念仏を唱えてる人間の、その音に反応して、山頂じゃ一人ずつ'まくり込まれてる'らしい」
「全体、あれは何なんだ」
「腔腸動物だ」
不二雄はきっぱりと言った。何に関してでもきっぱりと言い放つのが不二雄の癖だった。断言した事柄が真実であろうが誤りであろうが、不二雄にはどうでもいいことなのだ。その場の気配がくっきりとしたものになって、相手と自分の力関係が明らかになればそれでいいのである。ときとして彼は、その癖のために、自分や人をとんでもない危険の方へ導いていくことがある。
「で、おれたちはどうするんだ」
「しばらくここで様子を見る。それから、できれば上まで登ってみたい」
「登るのか」
「ああ。登ってみたい」
「おれはごめんだな。ぽっくりツアーみたいな爺さん婆さんといっしょに、あんなもののところまで行くのは」
「しかし、うまくいけばあれの香腺液だけを取って帰れるかもしれないじゃないか」
「香腺液?」
「なんにも知らずにここまで来たのか。驚いた奴だな。君はこの匂いに気づかなかったのか」
言われてみれば、さっきからまわりの空気に、さわやかなライムのような、それでいてもうすこし甘味を帯びたような芳香がただよっていた。
「これは何だろう。線香の匂いじゃないな」
「この匂いが、あれの分泌している香腺液の匂いだよ。山の上から吹きおろしてくる風にのって流れてくるんだ。みんなあの匂いにつられて登っていくんじゃないか」
「ああ、そうなのか」
「食虫植物は虫をおびき寄せるのに、甘い匂いを出すだろう。動物もジャコウジカみたいに胸腺から芳香液を分泌したりする。ある種のゴキブリは、羽の下に甘くてたまらない味のする分泌物を出して、メスがそれを夢中でなめてる間に交尾するんだ。あれの出す香腺液は、人間にとっては至上の宝物だ。'歓びの液体'というのがあれさ」
「ああ、あれがそうなのか」
おれはその名を昔から聞いて知っている気がした。
「徐福もマルコ・ポーロもアレキサンダーも、みんなあれを求めて世界中を旅したんだ。錬金術師が言う賢者の石も、あの香腺液の結石化したもののことだ。ほら、これだよ」
不二雄はポケットから薬包を取り出して、開いてみせた。紫色の水晶のような、ほんの〇・五ミリほどの結晶がひとつぶだけ、紙の上にのっていた。
「これがそうなのか」
「そうさ」
「これをどうすればいいんだ」
「いいものを見せてやろう。ついてこいよ」
不二雄は立ち上がると、山門の中へはいっていった。
はいってすぐのところに手水場があった。大きな石臼のくぼみに清冽な水が満々とたたえられ、ひしゃくが二、三本添えられていた。水は石のくぼみから際限なく湧いてくるようだった。かたわらに立て札があり、
「鰓の寺、石臼の湧水」
と書いてある。例によって弘法大師が石臼を杖で突いたら、清水が湧き出して云々、といった説明が寄せられている。
「いいか、小島。よおく見てろよ」
不二雄は薬包を取り出すと、中の紫水晶のような結晶を大事そうにつまみ、それを石臼の水の中に静かに落とした。
結晶が落ちたとたんに、水の色がさっと透明な薄い紫色に変わった。同時に、言いようのない甘酸っぱくすがすがしい香りがあたりにたちこめた。
「さ。飲んでみろよ」
不二雄は、ひしゃくでその水を汲むと、おれの鼻先に突きつけた。おれは受け取って、おそるおそる一口だけ口に含んでみた。
口の中で冷たい玉がはじけるような感覚があった。つぎに口腔内から鼻先へ、花の精のような芳香がすっと抜けて出た。感じるか感じないかというぐらいの、ごくほのかな甘みが舌先にあり、上質の果実のような淡い酸味も感じられる。そしてその味わいの重なりの間に、なにやら未知のコク、いまだ名づけられたことのないであろう軽やかな味覚が潜んでいた。飲みくだすと、その液体は涼しい流れのままに喉を降りていき、口の中には淡い紫色の余韻だけがかすかに残り、やがて消えた。
「うまいか」
「うむ」
これを評する言葉が出なかった。'何々のような味だ'というたとえに引き出せる対象がなかったのだ。それよりも、早くふた口目を飲みたかった。
おれはひしゃくに口をつけ、今度は息もつかずにごくごくと飲んだ。
不二雄も自分のひしゃくに汲んで、目をとじて飲んでいる。口元からこぼれたしずくが一すじ二すじしたたり落ちた。
「うーん、なんとも言えんな」
不二雄は一気に飲みほすと、また石臼の中にひしゃくを突っ込んで、二杯目を汲んだ。
「しかしな、天童寺」
「なんだ」
「これは湧き水だから、どんどん湧いてくるんだろ。早く飲まないとすぐに薄まっちまうだろうな」
「それは大丈夫だ。この結晶はゆっくりゆっくり溶け続けるからな。二日や三日じゃ溶けきらないさ」
「............」
「それより、好きなだけ飲めよ。なあに、いくら飲んでも大丈夫さ。酔っ払ってぶっ倒れるってことがないからな、こいつだけは」
「酔うって......これは酒なのか?」
「馬鹿だな、何だと思ってたんだよ」
言われてみると、胃のあたりにほんのりとあたたかな感じがしている。
おれは二杯目に口をつけた。ひしゃくの半分くらいまでを味わって飲んでいると、今度はたしかに胃の全体に陽がさしているような熱感を覚えた。まちがいない、これは酒だ。
しかし、通常の酒のように、舌を刺すようなアルコールのとげや、臭さがまったくない。酒飲みのおれでさえそれと気づかないほど、これはさわやかで軽い飲み口を持っていた。
それに酔いの最初のキックも、ウィスキーやウォッカのように、胃がカッと灼ける感じではなく、胃の中に小さな小さな太陽が生まれて、そこから体の内部をあたたかく照らしているような、そんな酔いなのだ。
おれと不二雄は、しばらくはものも言わずに夢中になって飲んだ。
五、六杯も飲むとさすがに酔いがまわってきて、全身を多幸感が満たした。そのくせ、飲み疲れて飽きるということはまったくなかった。おれと不二雄は、ものも言わず、ときどき目で微笑をかわすだけだった。
「なるほどなあ」
おれは幸福でいっぱいになって、初めて口をきいた。
「長い間探していたのは、これだったんだな。まさk、こんなものがほんとうにあるとは思わなかったけど」
「そうだろ?おれもずっとこいつを探していたんだよ。フルーツみたいにいい味で、陶然と酔って、二日酔いもせず、飲めば飲むほど体が元気になっていく。そんな酒をずっと探していたんだ」
「これがいつでも手にはいったら、天国なんだけどな」
「大丈夫。手にはいるさ。おれが今から山の上までいって、あれの香腺液をしこたま取ってきてやる」
「いや、危ないからよせよ。死んじまったらどうするんだ、天童寺」
「なあに、そんなに近くまで寄ることはないんだ。あれが移動した跡には、ナメクジの跡にたいに香腺液の帯ができてるはずだ。日中の陽ざしで結晶化して、こぶし大くらいの奴がごろごろ転がっている。楽なもんさ。おれとお前で、千年かかっても飲みきれないくらいの量はたちどころに集まるさ」
またも不二雄は断定的な口調で言った。
「じゃ、おれもいっしょに行くよ」
「だめだ。年寄りの行列の中に、若いのが二人も混じっていると目立ってしまう。いいから小島はここで飲んで待ってろ。二時間ほどで帰ってくるから」
不二雄は言うと、最後の一杯をうまそうに飲みほし、ひしゃくをカランと石臼の中に放り込んだ。
「じゃあな」
「ああ、気をつけろよ」
不二雄は山門を出て石段を下り、老人たちの長い行列に向かって歩いていった。
おれは少し不安になって、その後ろ姿を見守った。
老人たちの行列は、相変わらず果てしない長さで連なっていて、その数はさっきよりもずいぶん増えているように思えた。
天童寺不二男はその列の中に混じると、やがて人波の中に吸い込まれて判別がつかなくなってしまった。おれは目をこらしてその行列をながめた。
列の中に福来に背負われた西浦老人の姿が見えた。福来は、露骨にいやそうな顔つきをしていたが、西浦老はその背中に蛸のように貼りついて離れず、猿そっくりに歯をむき出して笑っていた。
その何列か後ろに足を引きずりながら歩いているのは吉田老人だ。額がぱっくり割れて、顔中血まみれになっている。
おれはその行列が黙々と進んでいく行く先の山の頂上を見上げた。
巨大なアメフラシは、最初に見たときよりもひとまわりかふたまわり大きくなっていた。動きも前より活発になったようで、体の横にある何千枚というフリル状の肉ひだが、うねうねとさかんに蠕動していた。
おれはそれを見て、アメフラシがもうすぐ動き出して、山の斜面をくだり始めるにちがいないと確信した。
「おーい、天王寺、危ないから帰ってこい」
おれは声をふりしぼって叫んだ。
「小島さん、小島さん」
看護婦に揺さぶられて目が醒めた。背中一面にぐっしょりと冷や汗をかいていた。
「採血をしますから起きてくださいね」
どんよりと頭の中が曇っている。たまらなく喉が渇く。おれはあれが飲みたい。薄紫色の液体。いい香りのする、ほんのり甘い石臼の中の酒。神話の酒。ネクタール。神の酒(ソーマ)。
看護婦に預けた腕にゴムのチューブが巻きつけられる。こぶしを握る。浮き立つ血管。おれはまた顔をそむける。チクッと痛みが走る。管の中におれのどす黒い血がたっぷりと吸い上げられる。
口の中に体温計が突っ込まれる。
脈。
血圧が計られる。九〇~一六〇。高い。あんなに血を抜いたのにねえ。
「今日から毎日、二時半から三時の間に、自分で体温を計ってくださいね。体温計はふらずにそのまま枕元のケースに入れといてください。定刻に集計して回りますから。それから、毎週火曜日に詰所の体重計で体重を計ります。これも忘れないように。いま何キロあるの?」
「さあ、五十キロくらいですか」
「ずいぶんやせてるものねえ」
「前は五十八キロから六十キロくらいあったんですけどね」
看護婦は気のせいか、うらやましそうな眼でおれの削げおちた頬を見た。その瞬間、おれは自分の書くべき本のタイトルを思いついた。おれの書くべき本は、ミステリーなんかではなかったのだ。
『病気でやせるダイエット』
これはベストセラーまちがいなしだ。なぜ早く気づかなかったのだろう。
「なにをニヤニヤ笑ってるの?」
体温計を口から抜きながら看護婦が尋ねた。
「いや、別に......」
枕元に、ビタミン剤ではない、初めて見る薬が置かれる。
「小島さん、このお薬を今日から二日間、毎食後二錠ずつ飲んで下さい。これは明後日の腹部エコー検査用のお薬ですから、忘れないようにね」
「あの......それって、あれですか。腹に穴あけて中身を見るっていう」
「それは肝生検でしょ。そうじゃなくて、腹部エコーです」
「痛いんですか」
「痛くはないわよ。音波で調べるだけだから。なに、恐いの?」
「いえ......はい」
「今日はこれから心電図を取りますからね。それと排尿量の検査とは別に尿検査をしますから、検尿窓口に出しておいてください」
「けっこういろいろあるんですね」
「当分はいろいろな検査がありますから、ハードかもしれないわよ。糖の分解速度の検査、糖負荷検査っていうんだけど、これのときには三十分おきに五回も採血しないといけないし。とにかく静かに横になってちゃんと食べて、体力つけないとね」
「はい」
「それはそうと、小島さん、あんまりお水飲んじゃだめよ」
「はい?」
「おしっこがどんどん出るのはいいことだけど、あんなに出るのはお水の飲み過ぎよ。胃酸が薄まって消化に悪いわよ」
看護婦の真剣な目つきで、おれは昨日の排尿袋の一件を思い出した。眉根にしわを寄せて、極力真剣な表情をつくり、おれはうなずいた。
「わかりました。気をつけます。おれ、生まれつき水が好きなもんですから」
「そう。そんなに水が好きなら、お酒なんか飲まずに水を飲んでりゃよかったのに」
「そうですね」
その後、検査室で心電図をとり、病室へ帰ると、また点滴が待っていた。
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