黄霊芝

Illustration by Hugo Muecke

ある日ふと―――だがこの「ふと」を理解出来る人は、ひょっとするとたくさんはいないかも知れない―――僕は左眼の瞼のなかに妙な肉塊が出来ているのを発見した。「癌」の一字が突如僕を奈落へ突き落としたのは言うまでもない。瞼の上から触ってみると固い肉塊である。径一センチ半もある球形をしている。この径一センチ半と言う大きさに、迂闊にもこの大きさに至るまで気づかなかった迂闊さに、僕は慌て出していた。それは痛みも痒みも感じなかったからであり、それだからこそ癌の疑いが濃厚なのであった。僕は鏡の前で自分の顔を見るのが恐ろしくなるほど、自分に死相が現われているのを感じないではいられなかった。

「おい」

僕は妻を呼んだ。

「癌が出来たらしいぞ」

だが僕の妻は鶏ほどにもめったに驚かない女性だった。彼女は今僕の大発見を前にして、相変わらず庭木同士が朝の挨拶を交わし合っているのを目にしていた。もっともこれは一つには表現過剰の僕が、今までにも「真っ逆さまに谷へ落ちたような大怪我をした」とか「ナイヤガラの滝のように僕は涙を流した」とか、「体温計があきれて僕の高熱に茫然としていた」とか言う表現法に詩的陶酔を感ずることしばしばだったためもあるらしい。彼女は僕の瞼を押さえてみて「案外小さいわよ」と言った。

僕はがっかりした。如何なる場合にでも良妻賢母は驚き易くおおげさであったほうがよいのだ。いわんや僕のほうではこんなに大きくなってしまうまで気づかなかった自分の迂闊さに慌てふためいていた矢先である。しかしここに僕は女性の、たとえばお産のような血まみれな仕事を平然とやってのける神経の太さに一驚せざるを得なかったのも事実だった。のみならず今案外に小さいと言われたことに僕は何故か僥倖を見い出そうとしている自分をも発見していた。

「どうしよう」

「どうしようって、医者へ行けばよいじゃないの」

僕は今まで何かをしようとする時に妻の意見を求めたことがなかった。妻も僕の意見を求めることがなかったし、そのほうが家庭内の平和を保つ上に好都合だったのも事実である。意見の合ったためしがないからだ。したがって僕たちは相手がどんな着物をもっているかさえ知らなかった。が今僕は「どうしよう」と尋ねていた。それはある程度までは独り言の一種に違いなかったが、ある程度までは独り言ではなかった。そして今彼女の涼しい返事を聞いた僕はたちまちもとの自分を取り返していた。妻なんか糞くらえだ。

僕は常々「天下第一級たるべし」を自分に要求している人間だった。仕事をしないなら話は別である。しかし仕事をするからには草一本を抜くにしても天下第一級の抜きかたをするべきだった。天下第一級のもの以外にはこの世には価値のあるものは一つもなかった。そう言うわけで僕はまだ何も仕事らしい仕事をしてはいなかった。第一級の仕事はそう簡単には取りかかれないからである。ただそのなかに誰に見られても恥ずかしくない仕事をやってみせる自信だけは一人前にもっていた。その自信をもちながらいつか四十に手が届きかかっていた。それでも僕はまだ新聞にときどき出て来る平均寿命が延びたと言うような記事に安住の地を見い出していた。だが今、全身をもってしても受けとめがたい癌一字を背負い込んだ今、僕は無為に送って来た四十年近い歳月を数え立てないわけに行かなかった。

僕の一家が郊外の山に今の家を立(ママ)てた時、付近の農家の一人に小屋の番から水の世話、蛇の退治等まで頼んだことがあった。その農家の主は実直な四十四、五の逞しい男だった。それが家の出来上がった頃鼻癌にかかった。彼は毎日山を下りて省立の病院までコバルト60の照射を受けに通った。彼の顔は日増しに黒ずみ、憔悴して行った。逞しかった体軀が驚く早さで痩せ細って行った。さしもの彼の体軀もコバルトを受け止めることが出来ないらしかった。あるいはさしものコバルトも彼の鼻癌を食い止めることが出来なかったのかも知れない。一月ほど経ったある日僕は彼に会ったが、彼は自分でも立っておれないくらいに衰弱していた。しばらくして葬式があり、僕は彼の二人の幼い息子たちを思って気が重かった......

そう言う彼の一家の運命が今僕を襲って来たのである。僕は僕の一人娘、山の小学校への入学を待っている僕の娘に、遺して上げられる何ものもまだないのを思わないわけに行かなかった。

僕の父はいわゆる紳士だった。実業家でもあり政客でもあり文人でもあった。その擁していた財産も決して少ないものではなかった。上層社会の一分子たるに恥じない家に住み、四人のお妾さんを侍らせ、贅を尽くした遊興に夜を徹することもしばしばだった。その噂は時に社会を賑わしていた。しかし僕が最も父らしい一面に触れていたのは万巻の書を蔵した書斎のなかの父だった。数百甲の田を数えていた父の財産は戦後法令一本で小作人たちの所有に帰していた。社会制度が時々刻々に変遷することを、変遷すべきものであることを父は知らなかったらしい。と言うより父の時代には考えられないことだったのだろう。父が息子たちに遺そうと思い、そして遺したと思って安心して死んで行ったその財産は、結局は息子の手には渡らずにしまったのだった。が幸いにして父は丹鶴楼詩選一巻を遺してくれていた。僕が貧困のなかで身を鶴のように持せんとする時、成り上がり者の富豪の前で涙をこらえねばならない時、丹鶴楼詩選一巻の姿は僕に無類の勇を与えてくれるのであった。それと同じ意味で、たとえ僕が千万の富を築いたとしても、それを娘に遺してあげることはもはや世情の許すところではなかった。僕が娘に遺せるものは精神上の欣慰以外にあるべくもなかった。そしてそれは文化へ繋がる僕の成果を意味するはずだった。それなのに僕はまだ何一つそれらしいものに手を着けてはいなかった。僕が自分の一生に狼狽を感じ出したのは瞼のなかに不逞の肉塊を発見してからだった。

朝食を済ませると僕は朝日の眩しい山の停留所からバスに乗った。死刑への道の第一歩を踏み出した形である。バスの入口の段を上がってドアが背後でガタンとしまった時、何故か停留所の側に咲いていた仏桑華に挨拶されたような気がした。嫌な気持ちだった。今まで何気なく乗り何気なく町へと出て行った道が、今後それを目にし得る日数の少なくなったことを僕は思わないではいられなかった。

バスの車掌は僕とは顔見知りの少女だった。彼女の微笑には常に少女らしい善意が籠っていた。が今彼女は僕が昨日の僕と違う顔になっているのに気付いてはいなかった。僕は二人の間の距離を思い浮かべた。僕たちは畢竟はこの世ですれ違った多くの人々のなかの二人に過ぎないのだろう。しかし僕は僕自身もまた昨日のようにある期待にも似た心情で彼女を見ていないことに気づいていた。

しかし丸々と瞼の上に姿を覗かせた肉塊を彼女が発見できなかったことは、少なくとも僕にある安堵を与えることでもあった。肉塊がまだ小さいと言う証を僕はしきりに信じたがっていた。

バスは七分がた客が混んでいた。座席に人はいっぱいだった。僕は十人ばかりの人と吊り革に摑まっていた。気がつくとバスのなかの客たちは誰もがそれぞれの人生を送っている風に、自己の世界で黙りこくっていた。ある者は瞼を開けたまま何かを考えていた。ある者は眠たげに忘却の世界に遊んでいた。そしてある者は―――だが今僕のように死と対決している悲壮な人間は一人もいなかった。僕ほど一心に生きようと―――生を思い死を思っているものはいなかった。彼等はちょうど昨日の僕の姿であった。が僕は心のどこかで彼等に優越に近い感情を味わってもいた。そしてその優越が医者の一言でたちまち崩れ去るものであることをも僕は知っていた。

バスは全速で山を下りていた。午前中のバスは超満員になることがなかった。身軽に、だが山を下りるバスは常々弾丸のように走った。バスが舗装の凹みを踏んで跳ね上がる時、僕はその一揺れの間にも肉塊の存在を覚えた。肉塊はバスが爆音を立てて走っている間にあってさえ僕を脅かしていた。時々刻々に肉塊は生長を続けているはずだった。一刻も早く病院へ行かねばならなかった。癌は発見された時、多くは手後れなのだ。そして僕は彼が一センチ半の大きさに生長するまで彼の存在に気づかなかった僕に、一生の狂ってしまったことを感じないではいられなかった。

しかし一刻も早く病院へ行き着くことは、それだけ死刑の宣告を早く受け取ることに外ならなかった。まっしぐらに走っているバスのなかで、僕はバスにもう少しゆっくり走って貰いたいような気も何だかしていた。

大学病院には外来の患者がたくさんいた。眼帯をつけておとなしく順番を待っている男がいた。目やにのなかでかすかに世間を見ている老婆もいた。むずかる子供を横抱きにして順番の回って来るのを待ち遠しがっている田舎の女もいた。目の悪い者に―――いやあるいは病人の全部に適用することかも知れないが、―――僕は彼等が全部善良そうな人間に見えるのだった。人は何故か不幸のなかにいる時悪人には見えなかった。看護婦が二、三人忙しく歩いていた。

呼ばれて最初の室へ入ると、インターンをしばらく前に勤め上げたような二十七、八の女医がそこに座っていた。どうしたのかと尋ねられて僕は瞼のなかの肉塊を指さした。心のなかでは運命の一瞬がとうとうやって来たことに怯えながら。女医は眼鏡をちょっと指先でずらし上げてから僕の瞼をめくった。一瞬烈しい痛みが瞼のなかに起こった。幼時足に出来たオデキの膿を両手で押し出された記憶が甦ったほどである。肉塊が潰れたのではないかとふと考えていた。いきおい癌が転移するのではないかと僕は危ぶんだ。

がその痛みは肉塊の潰れたためと決まったわけではなかった。瞼をめくった女医の指の、見かけによらない乱暴さから来た痛みかも知れなった。女医が瞼から手を離して僕を見下ろした時、僕は猛獣にさえ感じたことのなかった憎悪を、権威者なる者の冷酷さに覚えた。

「癌でしょうね」

と僕は単刀直入に尋ねた。すると女医は顔を挙げて僕を一瞥した。その一瞥には僕の質問が意外だった驚きもあったかも知れない。しかし僕は僕を値ぶみしている権威者の理性を感じとった。何も知らないくせに癌だけは恐れている、そう言う人間が多いものだった。もしも女医の目にはっきりとそれと解る色があったなら僕はどれだけ安心出来たか知れなかった。それは癌ではない、と言うことに外ならなかったから。 だが 女医は答えた。

「検査をしてみなければ何とも言えません」

それから彼女はいろいろなことを尋ねた。いつ発見したのか、痛みはないか、痒みはないか、異物感があるか、夜は眠れるか、他に病気は?たとえば花柳病、梅毒など?

僕は未だ嘗つて一女性が―――それも僕より年下の女性が、天下第一級を念願している男にかくも無礼な言葉を発し得るとは思っていなかったので、怒気脳天にみなぎった。せっかくさっきまでは相手が美しいわりに未婚らしいことから友達を一人紹介してやろうかと考えていたほどだったのに、彼女に対する好い印象はたちまち専門家をもって自認する人間への憎悪に変わった。しかし僕の心のなかに羞恥らしいものが頭を擡げていたのは何故だったか解らない。年下の彼女が曲がりなりにも一かどの医者になっているのに、僕自身が四十に手が届きそうになりながらいまだに何もしていない、それへの羞恥もあったらしい。彼女はカルテに何やら長い横文字を書き込むと、立ち上がって次の室へ持って行った。そして僕にも次の室へ行くようにと命じた。

次の室へ入ると明らかに教授と解る六十がらみの医者が七、八名のインターンに囲まれて座っていた。教授は僕に座ることを命じてからカルテへ目を通した。それから彼は手を伸ばして―――僕はさすがに教授だけあって、めくられた瞼に痛みが感じられなかったことに感心した。下ろされた手を見ると思いがけないほど短い太い指だった。

「癌でしょうか」

僕はおそるおそる尋ねた。

「いや、癌じゃありません」

間をおかずに教授は答えた。その一言は僕にとってどんなにありがたい言葉だったろう。無論僕は医者が癌の場合にはたいてい癌ではないと言うのを知っていた。が、癌ではありませんと言われたことは、ともかくも癌ですと言われるよりは助かるのに違いなかった。それに今この医者はごく自然に、少なくとも嘘にしてはすらすらと口に出していた。そしてこの教授の風貌には嘘を言い続けて来た老練さが感じられるほど、狡猾なものがあるとは思えなかった。ほとんど田舎者のようにさえ、その半白の髪には油気がなかった。しかし教授は語を継いだ。
「今すぐ切りましょう」

今すぐ、と言われて僕はたちまち奈落へ突き落されていた。それでなくても癌ではないと言われて安堵した矢先なのだ。僕は肉塊がやはり癌だったらしいのを思わずにはいられなかった。それもよほど悪化しているらしいのである。第一手術と言うようなことは僕たち患者には大変な出来ごとだった。それに僕は今たった一人で病院に来ていた。万一手術中に死んでしまったら誰が遺骸を引きとりに来るのだろう。「今すぐですか」と聞き返した僕の声には死刑囚の穏やかならぬ心情がみなぎっていた。だがその時教授たちはすでに立ち上がっていた。手術室と書かれた戸口の前に立って僕を催促していたのである。

死刑囚には服従以外に許されているものは一つもなかった。そして医者は患者にとっては法官のようなものだった。しかし瞼のなかの肉塊は切りとってしまえばあるいは僕は死なずに済むかも知れなった。僕は抉りとられて炊事場の流しに転がっている烏賊の目玉のような目がどこかで僕を見ているのを背後に感じた。その目は死んだお母さんの目のようでもあった。

僕は脱いだ靴を何故か丹念に揃えてから手術台の上へ上がった。ある儀式の中心にいるようだった。靴を揃える時、それがあるいは遺品と言う形で妻の手に渡るかも知れないと言うことを念頭に上していた。遺品にしては薄汚れた革靴だった。

明るい窓辺で教授は注射筒に何やらの薬剤を満たしていた。その慣れた手つきに、僕は僕のような患者が過去にも多かったに違いないことを考えていた。すると何だか恐怖が薄らいだ。教授は注射筒の針を上向きにして別の手で空気を押し出しながら手術台の側へ歩いて来た。教授は明るい窓を背景にして妙に大きな輪郭に見えた。インターンたちが獲物にたかる蟻のように僕を取り囲んだ。

すべてが瞬く間に進行してしまっていた。昨夜寝るまで僕は自分が今日病院へ来るとは思ってもいなかった。自分が病気だと言うことさえ知ってはいなかった。それが今台上に寝そべって手術を受けようとしている。そしてあるいは僕の一生はこれで終わるかも知れなった。だが手術は受けねばならなかった。手術をしなければ僕の寿命はそれこそ後数月しかもたないのだ。僕は丹田に力を入れた。

医者の手が瞼に触れていた。瞼の上で何かしているのが解っていた。妙に静かになっていた。室内の空気が金属製のメスの上で反響しているような静かさだった。と、突然鋭い痛みが瞼の上で迸った。注射針が下ろされたのに違いなかった。針は瞼の裏へ刺されたのか肉塊そのものに刺されたのかは解らなかった。ついで金属と陶器の音がして医者がガラス皿から鉸を取り上げたのが解った。
僕は血液を無性に恐れる質だった。指を切って血が噴き出るのを見るのは虎を見るより怕かった。わずかの鼻血にも貧血を起こしてしまう僕だった。僕は医者が鉸らしいものを取り上げたのを感じて緊張の極限を味わっていた。僕はふと僕の呼吸音が、じっとしていたにかかわらずずいぶんと荒くなっているのに気づいた。

やがて鉸が下ろされた。その瞬間僕は息が止まったのを覚えている。

「痛みますか?」

医者に尋ねられて僕は首を横に振った。いや振ろうとしたのだ。と、ちくりと瞼が痛んだ。医者が慌てて僕を制した。

「動いちゃいけません。動いちゃ......」

医者が慌てた声を出したので、僕は転移と言うことを思って今度は僕が慌てた。しかし後の祭りだった。転移はもう始まったかも知れなかった。と同時に瞼のなかでは僕の恐れて止まない出血が起こっているのに違いなかった。僕は一心に目を閉じていた。

何だか喉が乾いていた。舌がもつれた感じだった。が僕は辛うじて医者に嘆願していた。

「きれいに取って下さいな。きれいに......」

室生犀星全集の第何巻目かに何度も何度も医者通いして目ボを切りとることを書いた小説があった。僕はふとそれを思い出していた。昨日まではそれを思い出しさえすれば微笑が浮かんで来た僕だった。しかし今僕は教授の口を洩れる欧文の言葉のなかからカンセルの一語を聞き分けようとしている自分を知っていた。教授はさっきからインターンたちに説明をしていた。がその一言は何故か耳に聞こえては来なかった。

やがて手術が終わった。冷たい薬が塗布され、眼帯をはめられて僕は手術台の上に体を起こした。

切りとられた肉塊はガラス皿のなかに置かれていた。それは思ったより柔らかそうな桃色の塊だった。球形と思っていたが多少ぐにゃりとしていた。僕の体の一部だった彼はガラス皿のなかで多少面映げにうなだれている恰好だった。僕を征服することに失敗した羞恥がありありと見えていた。悪性腫の名にふさわしくなさそうであった。何故か僕は彼に憐憫に近いものを感じた。インターンたちに囲まれて彼は生き恥をさらしていた。メスの先で教授がそれを裏返しにする度に僕は生き恥をさらしているのが僕のような気さえした。

癌でしょうか、とほんとうは僕は尋ねたがっていた。が今インターンたちを前にしてそれを口にするのが何だか憚られた。インターンたちの背後から僕の一部だった肉塊を覗いている僕に気がついて、教授は僕に言った。

「大丈夫、癌ではありませんよ」

それは確かに僕を安心させる言葉であった。僕は気が晴ればれとする思いだった。窓の外で樹木の青葉が日光に輝いているのが目についたほどである。僕は礼を言って台から下りた。室を出る時、出しなに例の肉塊が心細げにしていたことに何故か僕は不安を感じた。そして室を出たところでこれも何故か、僕は僕を追い出すために教授が癌でないとわざわざ言ったのではないかと疑った。僕の出た後でもインターンたちに囲まれて教授がまだ説明を続けていたからである。しかし手術室の外でもまだ順番を待っている患者たちを目にした時、僕はふと優位に立った人間の心情を覚えたから不思議だった。今朝からの懸案を解決して来た安堵もあったらしい。少なくとも今朝に較べて気がよほど軽くなっていたのは確かだった。嘘にもせよ、とにかく癌ではないと医者が言ってくれたのだから。順を待っている人たちの顔にはまだ懸案の解決されない、言わば青いまま落ちてしまった木の葉が地べたで心配しているような、そんな憂慮が顔に見えていた。僕は大ぎょうに眼帯へ手をやり、不幸を装ってそこを離れた。
家へ帰ると妻の姉が来ていた。僕が病院へ行った後、妻はようやく僕がほんとうに癌かも知れないことに思い至ったのだった。彼女はふと屍体になった僕を思い描き、怕くなって姉に電話をかけたのに違いなかった。彼女の姉が驚いて飛んで来たのはそのためである。彼女の姉は僕の妻より遥かに女性的な女だった。彼女は眼帯をかけた僕に微笑みかけた。彼女は僕と同年だったが、そこに僕は優しい「年上」を感じた。がその微笑みのなかには、ややもすると涙になってしまいそうなものが隠されているのを僕は見てとった。そればかりか、彼女等姉妹が僕の帰って来るまでの間泣き合っていたらしい気配まで僕は嗅ぎ当てていた。するとせっかく医者に癌ではないと言われて軽くなっていた気持ちが、急にぐらつき出していた。それでも僕は努めて陽気に妻の姉に話しかけたのを覚えている。そうでもしない限りいたたまれなかったのも事実だろう。そして彼女も努めて陽気に僕に話しかけてくれたのも知っていた。それを愚直な妻が陽気に笑ったことから、僕と妻の姉は今度は突然に口をつぐんでしまった。

*岡崎郁子編『宋王の印』(慶友社、2002)所収「癌」より、黄霊芝氏、岡崎郁子氏、慶友社の許可を得て転載。

Excerpted from Sou-ou no In, edited by Okazaki Ikuko and published by Keiyusha (2002). By permission of Kou Reishi, Okazaki Ikuko, and Keiyusha.